2012年9月10日月曜日
日本サッカーに足りないもの
ここ数ヶ月、ユーロ2012、オリンピック、女子U20W杯と立て続けにサッカーのトーナメントをたくさん見て、すっかりサッカー漬けになってしまった。日本代表の試合も各種たくさん見れた。
で、気になったことがある。男子も女子も、日本人選手はファウルを滅多にしない。男子U23は六試合でファウル数が89、メキシコが同じ試合数で78。あれ、男子だとけっこうというか普通にファウルしてるのか。1試合につき15ってのは少ない方ではない。
http://www.fifa.com/mensolympic/teams/team=1889789/index.html
でも、女子は明らかに少なかった。
女子A代表は六試合でファウル数が42に対し、被ファウル数が85。アメリカが同じ試合数で81だから、ほぼ半分だ。
http://www.fifa.com/u20womensworldcup/teams/team=1888600/index.html
女子U20は六試合でファウル数が31、ドイツが六試合で61だからやはり約半分だ。
http://www.fifa.com/u20womensworldcup/teams/team=1888594/index.html
日本人の女の子はじつにファウルが少ない。とくにU20では一試合につき五つ。統計ミスじゃなければ、こんなのサッカーじゃない、というくらい少ない。
もちろん、ファウルってのは反則だから、しない方がいいにこしたこたぁない。実際、審判も、日本があまりにファウルしないもんだから、相手のプレイに対してきつくファウルを取る、ということがあった。
とくに、グループリーグ中はその傾向が強かった。しかし、決勝トーナメントの、それも後半になると、審判のファウルの取り方がかわってくる。きっと、審判陣は日本の相手にファウルを取りすぎたことを見て、調整してきたのだと思う。ある試合を境にばったりと審判が日本の対戦相手のファウルを取らなくなる。そして、それはだいたいの場合、いきすぎる。
はっきり覚えているのは数日前にあったU20の対ドイツ戦。ユーゲントジャーマンの執拗なタックルにヤングなでしこは苦しめられる。が、明らかにイエローの場面でも審判はイエローはださず、ただのファウルで処理する。同じ選手が明らかに何度もイエローに値するタックルを繰り返しても、やはりイエローは出ず。ここでフランス人の実況は、「審判はFIFAの規定は知っているはずだ。なぜイエローが出ないのか」とまで言っていた。この試合、イエローの数は結局0。
イタリアや韓国じゃあるまいし、ドイツがメキシコ人主審Lucila VENEGASを買収していたとは思えない。彼女は、日本戦では相手についついファウルを出し過ぎてしまうということを念頭におくあまり、あまりに明確なファウルを見過ごす結果になったのだと思う。こういうことは、よくある。
確か2010年の男子W杯でも、決勝トーナメントで同じような審判のジャッジの傾向の反転があったように思う。男子は、数字上はいまは十分な(?)ファウルをするようになったようにも思えるが、ロンドンではやっぱりそうでもなかった。日本男子U23は、明らかにクリーンな戦い方をしていた。これはいいことかもしれないが、運もからむトーナメント戦を勝ちぬくには厳しい。じつに厳しい。
男女問わず、日本の相手はこっちのシャツをつかんだり、後ろから胴体に腕を回して引きずり回したり、セットプレーで相手をこっそり突き飛ばしたり、というようなことは数秒おきにやってくる。で、そういうすべてのプレーに対してファウルが取られるわけではない。とくにペナルティエリア内では。つまり、日本はやられ損だ。
http://www.youtube.com/watch?v=WD7oR7UQDv4&feature=related
上で見られる対談では、外国人が日本のサッカーに足りないのはマリーシアだと言っている。これは実に10年前から言われていることだ。トルシアは日本代表監督として、はじめて選手にマリーシアのやり方を教えていた。それから十年。
Jリーグの特徴は、今でもクリーンなプレーにある。というか、Jではそもそも身体的接触が少ない。激しいあたりも、ファウルぎりぎりの攻防もすくない。全体的に少ないから、ちょっとそういうプレーをすれば一発でファウルを食らうと思う。外国人選手(ピクシーとか)がはじめ日本の審判になじめないのはそのせいもあると思う。
女子の試合を見ていて、この子たちむちゃ上手い、と思ったと同時に、この子たちJでも活躍できるじゃないだろーか、まで思った。身体的接触が少なく、テクニックの上手い選手が活躍できるJだと、田中陽子とか岩渕真奈が出てきたら男子をちんちんにできる。あ、決してJリーグのレベルが低いということを言いたいのではない。Jはリーグアンなんかよりかは絶対上だ。それより、あの子たちが世界レベルでうますぎるって話。しかもかわいいし。若いしかわいい。ま、でも、あれ、試合おわった後にユニフォーム交換しないってのは興ざめ。
2012年9月9日日曜日
ManUtdの香川に何が求められているのか?
サッカーの戦術には、一般的に考えると、どうつなぐか、どう守るか、ペースはどうするか、どこから攻めるか、といった要素の複合によって決定される。で、それぞれの要素については、大まかに二つ選択肢がある。つなぎに関しては、ロングかショート、ペースに関しては早いか遅いか、守備のラインに関しては高いか低いか。攻めについては中央かサイドか。
たとえば、五輪日本代表は、ショート、クイック、ライン高で、フルゾーンプレスのショートカウンターを狙った。これは永井という俊足カウンター要員がいたからできたしはまった。しかし、いったん相手がショート、スロー、ライン低という戦術をとってくると、カウンターができなくなり、日本の戦術は機能しなかった。一つしか戦術をもっていないと、どうしたっていつかは対応されて終わってしまう。
同じことが日本のA代表にも言えるし、ManUtdにも言える。ManUtdはイングランドのチームにありがちな、ロングパス&サイド攻撃という戦術を使っている。つまり、ゴリ押し。これに対して、香川はどちらかというとショートパス&中央突破という戦術にフィットする選手だ。ファーガソン監督は、チームに変化を加えたくて香川を獲得したのであり、そこんところはサポもよく分かっている。というのも、今までのManUtdの試合は面白くないし、ロングパスとサイド一辺倒だけでは、ヨーロッパの強豪には勝てない。
と、こうまとめとる簡単だけれど、ショートパスのいったいどこがすごいのか。これは、ここ十年(あるいは五年)ほどの間に起きたと思われる、サッカーの進化に関する話になってくる。それは、誰もが知るあのチーム、バルセロナによってもたらされた。バルサ以前のサッカーはどうだったか。94年のワールドカップや、ぼくは見ていないけれどEURO2004とかでは、守備的につまんなく戦ったチームがいい成績を収めていた。このころは、理想と現実のギャップ、ということが頻繁に語られ、サッカーとは究極的にはつまんないものかもしれない、とみんなが思い始めていた。
ところが、EURO2008を期に世界に名をとどろかせるようになったスペイン代表やバルセロナは、サッカーにとってまさに福音といえる存在となった。美しく、しかも効率的なサッカー、ということがありえるということを彼らは世界に示した。それは理想と現実の融和だった。そして、いまや、日本の子どもたちだけでなく、あのロングボール一辺倒だったオーストラリアでまで、バルサを手本としたサッカーが模索されるようになってきている。彼らの影響力というのは、サッカーの世界に限っては、いかなる国、権威をも超える。
バルサはショートパス主体の攻撃だ。見れば一目瞭然のその特徴。パスの出してともらい手がめまぐるしく場所をかえながらボールを動かし、チャンスを作る。これが機能するのは、モダンフットにおいて、選手は相手のボール保持者にプレスすることが鉄則としてあるからだ。そのため、ボールを動かせば相手も動く。その動いたところにできたスペースを使えば、またボールがつながっていく。そのことについて、とても詳しく解説したページがある。
これ。ここでは、香川を含めた日本代表が、まるでバルサみたいなサッカーをしていることが解説されている。香川がいたドルトムントのある試合を例に出しながら、pal-9999さんはこう書く
「現在のサッカーのゾーンディフェンスというのは、ボールホルダーにプレスがかかっていることが前提であり、フリーのボールホルダーには誰かが当たりに行こうとする傾向がある。こういった「ボールホルダーに当たりに行こうとするDFの習性」を利用して、最終ラインにいたMFの一人を前に釣り出す。これが彼の狙い。そして、狙い通り、サヒンに当たりにDFが前に出た事でゾーンの間にわずかなスペースが生じているのがわかると思う。ここでボールを受けることができれば、敵DFラインの裏に抜け出せる。香川はこの判断がもの凄く速い。」
これがキモの文章。ボールをエサにして、相手を動かし、相手が動いたことで生まれるわずかなスペースをつく。香川はそれが上手い。
それがどんだけ上手いかというと、日本代表の試合について解説されているところの文章で解説されている。
「これは、相手のDFラインが、ピラミッド型に変形しようとする、その一瞬の隙をついたスプリントで、ピラミッド型に変形しようとすれば、一瞬だが、△の中心から底辺にかけてスペースが生じてしまうのは避けられない。その一瞬を逃さず、走り込んでボールを受けることができれば、フリーで裏に抜け出すことができるのだ。香川がJ2で、そしてブンデスで散々繰り返している動きである。彼は、本当によくサッカーを知っている選手だと思う。この一瞬を逃さない。」
基本DFはフラットに守っているが、DFの前でボールを持った相手がいる場合、誰が一人があたりにいく。そのとき、わずかにあたりに前に出た選手と、少し後ろにいる選手の間に、少しのスペースができる。
そこに香川は入り込んでボールをもらうのがうまい、ということらしい。これはすんごい高度な戦術眼がいることだし、同時にすごいハイレベルなレベルなテクニックがいることだと思う。pal-9999さんはもともとセレッソのファンだったらしく、その時代から香川を見てきているのだと思う。そして、彼の解説は、ドルトムント、日本代表、そしてバルサの試合に至るまですごく深いところをとらえている。これは、日本のサッカーを見ていれば、世界のサッカーのハイレベルな攻防も分かるようになるということだと思う。この現象は、サッカー選手が日本でむちゃくちゃ成功すれば、世界のハイレベルなクラブでも成功しうる、ということと平行の現象だ。これは、いま元セレッソにいた選手が熱いということとも無縁ではない。
この時期の日本代表は、遠藤と香川が機能していたらしく、両者の連動について上のブログではまとめられている。もっとも、遠藤は香川が出てくる前から、うまくパスを使って相手をわずかに引き出す動きがうまかった。このことについて、遠藤自身が語っているので、見てほしい。
このビデオの八分目くらいのところ。ここで、遠藤は左にフリーの選手に出す前に、前の松井に出して、松井が戻したボールを左の選手に走らせて出している。ここで、遠藤がはじめの松井へのパスの効果について解説している内容は、まさにpal-9999さんが何度も解説していることと同じだ。ボールの持ち手にわずかにつられた相手の裏をかいて、三番目の選手にパスを出す。これだ。
2006年のW杯の時、日本の選手は、二人目までの連動はできるが、三人目、四人目動きがついてこない、それができないと厳しい、ということを言っていた。いまの日本代表は、出来不出来はあるかもしれんが、それができている。攻撃が、個人技に頼るものよりも、組織の動きで崩すものになってきている。これが、ここ五年で進化したサッカーの成果だ。
バルサ以降のパスサッカーの基本についてまとめるとこうなる。相手のプレスの動きを利用して、ボールをもっていない味方の選手を一瞬フリーにさせる。と同時に、相手のプレスによってできたスペースを狙う、という動きによって相手を崩す。
このエントリーでは、ドルトムントと日本代表の試合を例に、香川の動きについて解説されている。ここを読むと、ビルドアップがいかに複雑に構築されているかが分かる。ぼくはサッカーの試合をみていてもそんなことはまったくわかんないので、この人は本当にすごいと思う。
が、2ちゃんを見ていると、香川はバックパスが多いからだめ、みたいな意見が多かった。これは、多くの人が、まだサッカーの戦術が変化したことを理解していないのだと思う。もし、常に前にパスを出すしか攻撃の方法がないのであれば、相手の組織的な守備にはまず勝てない。かつての日本代表がそうだった。2006年のW杯では、中田ヒデが執拗に相手の裏を狙ったパスを出していたが、ことごとくつながっていなかった。これは、このときの日本代表が、いまのフットで知られてきているパス回しによる崩しを知らなかったからだと思う。実際、攻撃に関しては個々の能力による突破しかなかった。これは、日本だけでなく、当時の世界的な傾向でもあった思う。
かつてバックパスがあくとされた時代があった。それは、ひたすら前へ前へとボールを運ぶしか攻撃の方法を知らなかった時代の話だ。いまのフットボールでは、バックパスも攻めの一つの過程の一つだ。誰かのブログで、ヒデ世代のときの日本代表のバックパスは、攻めあぐねて選択肢がないときのものだったが、いまの日本代表の遠藤のバックパスは、それでも攻めの流れがとぎれない印象を受ける、と書いていた。これはすごく正しい。遠藤はパスの出し手として、香川はパスの受け手として、ショートパスによる崩しのキーパーソンたり得る選手なわけだ。
ただ、いまのManUtdが、ドルトムントやこの時の日本代表みたく、組織的な動きによる崩しをしているかというと、そんなことはない。これができるには、選手全員がイメージを共有しないといけない。しかし、ファーガソン監督は、細かく戦術を教えるというよりかは、いい選手をとってきて働かせているだけのように思える。それがイギリス流なのかもしれんが、それでは香川の活躍には自然と限界が来る。彼は一人で突破したりする選手ではないからだ。
というわけで、以上のことを念頭に置いてManUtdの試合を見ていくと、すごく面白そうだ。あるいは、ああー香川フィットしてないよー、ルーニー早く戻ってきてーと、余計にイライラすることになるかもしれない。そこがまたサッカーの面白いところだと思う。
ただ理解しておきたいのは、香川がイギリスで通用するかということが問題なのではなく、ここ五年で進化したフットボールの体現者として、彼がManUtdでそれを実践し普及できるか、ということが問題だと言うこと。彼がやるフットボールは、実はたいがいのイギリス人選手より進んでいるのだ。日本の選手が海外で通用するかどうかではなく、彼のモダンなフットが、いまだ古くさいサッカーをしているチームを変えられるかどうかが問題なわけだ。日本人はいつも欧米を手本にしてきて、手本がなくなるとパニックになってしまう。しかし、今や、日本人が世界に手本を示す時代になった。そのことに、多くの日本人はまだ気がついていない。
たとえば、五輪日本代表は、ショート、クイック、ライン高で、フルゾーンプレスのショートカウンターを狙った。これは永井という俊足カウンター要員がいたからできたしはまった。しかし、いったん相手がショート、スロー、ライン低という戦術をとってくると、カウンターができなくなり、日本の戦術は機能しなかった。一つしか戦術をもっていないと、どうしたっていつかは対応されて終わってしまう。
同じことが日本のA代表にも言えるし、ManUtdにも言える。ManUtdはイングランドのチームにありがちな、ロングパス&サイド攻撃という戦術を使っている。つまり、ゴリ押し。これに対して、香川はどちらかというとショートパス&中央突破という戦術にフィットする選手だ。ファーガソン監督は、チームに変化を加えたくて香川を獲得したのであり、そこんところはサポもよく分かっている。というのも、今までのManUtdの試合は面白くないし、ロングパスとサイド一辺倒だけでは、ヨーロッパの強豪には勝てない。
と、こうまとめとる簡単だけれど、ショートパスのいったいどこがすごいのか。これは、ここ十年(あるいは五年)ほどの間に起きたと思われる、サッカーの進化に関する話になってくる。それは、誰もが知るあのチーム、バルセロナによってもたらされた。バルサ以前のサッカーはどうだったか。94年のワールドカップや、ぼくは見ていないけれどEURO2004とかでは、守備的につまんなく戦ったチームがいい成績を収めていた。このころは、理想と現実のギャップ、ということが頻繁に語られ、サッカーとは究極的にはつまんないものかもしれない、とみんなが思い始めていた。
ところが、EURO2008を期に世界に名をとどろかせるようになったスペイン代表やバルセロナは、サッカーにとってまさに福音といえる存在となった。美しく、しかも効率的なサッカー、ということがありえるということを彼らは世界に示した。それは理想と現実の融和だった。そして、いまや、日本の子どもたちだけでなく、あのロングボール一辺倒だったオーストラリアでまで、バルサを手本としたサッカーが模索されるようになってきている。彼らの影響力というのは、サッカーの世界に限っては、いかなる国、権威をも超える。
バルサはショートパス主体の攻撃だ。見れば一目瞭然のその特徴。パスの出してともらい手がめまぐるしく場所をかえながらボールを動かし、チャンスを作る。これが機能するのは、モダンフットにおいて、選手は相手のボール保持者にプレスすることが鉄則としてあるからだ。そのため、ボールを動かせば相手も動く。その動いたところにできたスペースを使えば、またボールがつながっていく。そのことについて、とても詳しく解説したページがある。
これ。ここでは、香川を含めた日本代表が、まるでバルサみたいなサッカーをしていることが解説されている。香川がいたドルトムントのある試合を例に出しながら、pal-9999さんはこう書く
「現在のサッカーのゾーンディフェンスというのは、ボールホルダーにプレスがかかっていることが前提であり、フリーのボールホルダーには誰かが当たりに行こうとする傾向がある。こういった「ボールホルダーに当たりに行こうとするDFの習性」を利用して、最終ラインにいたMFの一人を前に釣り出す。これが彼の狙い。そして、狙い通り、サヒンに当たりにDFが前に出た事でゾーンの間にわずかなスペースが生じているのがわかると思う。ここでボールを受けることができれば、敵DFラインの裏に抜け出せる。香川はこの判断がもの凄く速い。」
これがキモの文章。ボールをエサにして、相手を動かし、相手が動いたことで生まれるわずかなスペースをつく。香川はそれが上手い。
それがどんだけ上手いかというと、日本代表の試合について解説されているところの文章で解説されている。
「これは、相手のDFラインが、ピラミッド型に変形しようとする、その一瞬の隙をついたスプリントで、ピラミッド型に変形しようとすれば、一瞬だが、△の中心から底辺にかけてスペースが生じてしまうのは避けられない。その一瞬を逃さず、走り込んでボールを受けることができれば、フリーで裏に抜け出すことができるのだ。香川がJ2で、そしてブンデスで散々繰り返している動きである。彼は、本当によくサッカーを知っている選手だと思う。この一瞬を逃さない。」
基本DFはフラットに守っているが、DFの前でボールを持った相手がいる場合、誰が一人があたりにいく。そのとき、わずかにあたりに前に出た選手と、少し後ろにいる選手の間に、少しのスペースができる。
そこに香川は入り込んでボールをもらうのがうまい、ということらしい。これはすんごい高度な戦術眼がいることだし、同時にすごいハイレベルなレベルなテクニックがいることだと思う。pal-9999さんはもともとセレッソのファンだったらしく、その時代から香川を見てきているのだと思う。そして、彼の解説は、ドルトムント、日本代表、そしてバルサの試合に至るまですごく深いところをとらえている。これは、日本のサッカーを見ていれば、世界のサッカーのハイレベルな攻防も分かるようになるということだと思う。この現象は、サッカー選手が日本でむちゃくちゃ成功すれば、世界のハイレベルなクラブでも成功しうる、ということと平行の現象だ。これは、いま元セレッソにいた選手が熱いということとも無縁ではない。
この時期の日本代表は、遠藤と香川が機能していたらしく、両者の連動について上のブログではまとめられている。もっとも、遠藤は香川が出てくる前から、うまくパスを使って相手をわずかに引き出す動きがうまかった。このことについて、遠藤自身が語っているので、見てほしい。
このビデオの八分目くらいのところ。ここで、遠藤は左にフリーの選手に出す前に、前の松井に出して、松井が戻したボールを左の選手に走らせて出している。ここで、遠藤がはじめの松井へのパスの効果について解説している内容は、まさにpal-9999さんが何度も解説していることと同じだ。ボールの持ち手にわずかにつられた相手の裏をかいて、三番目の選手にパスを出す。これだ。
2006年のW杯の時、日本の選手は、二人目までの連動はできるが、三人目、四人目動きがついてこない、それができないと厳しい、ということを言っていた。いまの日本代表は、出来不出来はあるかもしれんが、それができている。攻撃が、個人技に頼るものよりも、組織の動きで崩すものになってきている。これが、ここ五年で進化したサッカーの成果だ。
バルサ以降のパスサッカーの基本についてまとめるとこうなる。相手のプレスの動きを利用して、ボールをもっていない味方の選手を一瞬フリーにさせる。と同時に、相手のプレスによってできたスペースを狙う、という動きによって相手を崩す。
このエントリーでは、ドルトムントと日本代表の試合を例に、香川の動きについて解説されている。ここを読むと、ビルドアップがいかに複雑に構築されているかが分かる。ぼくはサッカーの試合をみていてもそんなことはまったくわかんないので、この人は本当にすごいと思う。
が、2ちゃんを見ていると、香川はバックパスが多いからだめ、みたいな意見が多かった。これは、多くの人が、まだサッカーの戦術が変化したことを理解していないのだと思う。もし、常に前にパスを出すしか攻撃の方法がないのであれば、相手の組織的な守備にはまず勝てない。かつての日本代表がそうだった。2006年のW杯では、中田ヒデが執拗に相手の裏を狙ったパスを出していたが、ことごとくつながっていなかった。これは、このときの日本代表が、いまのフットで知られてきているパス回しによる崩しを知らなかったからだと思う。実際、攻撃に関しては個々の能力による突破しかなかった。これは、日本だけでなく、当時の世界的な傾向でもあった思う。
かつてバックパスがあくとされた時代があった。それは、ひたすら前へ前へとボールを運ぶしか攻撃の方法を知らなかった時代の話だ。いまのフットボールでは、バックパスも攻めの一つの過程の一つだ。誰かのブログで、ヒデ世代のときの日本代表のバックパスは、攻めあぐねて選択肢がないときのものだったが、いまの日本代表の遠藤のバックパスは、それでも攻めの流れがとぎれない印象を受ける、と書いていた。これはすごく正しい。遠藤はパスの出し手として、香川はパスの受け手として、ショートパスによる崩しのキーパーソンたり得る選手なわけだ。
ただ、いまのManUtdが、ドルトムントやこの時の日本代表みたく、組織的な動きによる崩しをしているかというと、そんなことはない。これができるには、選手全員がイメージを共有しないといけない。しかし、ファーガソン監督は、細かく戦術を教えるというよりかは、いい選手をとってきて働かせているだけのように思える。それがイギリス流なのかもしれんが、それでは香川の活躍には自然と限界が来る。彼は一人で突破したりする選手ではないからだ。
というわけで、以上のことを念頭に置いてManUtdの試合を見ていくと、すごく面白そうだ。あるいは、ああー香川フィットしてないよー、ルーニー早く戻ってきてーと、余計にイライラすることになるかもしれない。そこがまたサッカーの面白いところだと思う。
ただ理解しておきたいのは、香川がイギリスで通用するかということが問題なのではなく、ここ五年で進化したフットボールの体現者として、彼がManUtdでそれを実践し普及できるか、ということが問題だと言うこと。彼がやるフットボールは、実はたいがいのイギリス人選手より進んでいるのだ。日本の選手が海外で通用するかどうかではなく、彼のモダンなフットが、いまだ古くさいサッカーをしているチームを変えられるかどうかが問題なわけだ。日本人はいつも欧米を手本にしてきて、手本がなくなるとパニックになってしまう。しかし、今や、日本人が世界に手本を示す時代になった。そのことに、多くの日本人はまだ気がついていない。
2012年8月10日金曜日
なぜ日本はメキシコに勝てなかったのか?
ロンドンオリンピックの準決勝、日本対メキシコ戦は1-3でメキシコの勝利に終わった。この試合についてはすでにいろいろなことが書かれている。なかでもpal-9999さんの文章は明快だ。
http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20120809/p1
日本は一点目とてもいい形を作って点を取ったが、足が止まり負けた。ぼくが見始めたのは日本の足が止まってからだったが、確かにほんの数秒見ただけでこりゃあだめだと思った。メキシコに同点に追いつかれた時点で、勝てる気が全くしなくなったので見るのをやめた。あれだけ動けないで勝てるということは絶対無い、そう確信させるような試合ぶりだった。実際、二点目はちょんぼからやられた。普通ならあんなミスはありえないというようなミスだった。それもこれも、連戦の疲れのせいだろう。
メキシコ相手には練習試合で勝っている。なので、格上の対戦なので足がすくんだとか、準決勝まで来たので満足していたとか、そういう理由で動けなかったのではないだろう。やはり、ハイプレスで連戦してきたことからの疲れが来たのだと思う。日本が負けたのは必然だっただろう。
日本の敗戦は必然、というのには理由がある。日本は、一戦目から全力でいかなければならなかったために、どうしてもだんだんとコンディションが下がってくる。が、ホンジュラス戦を除いて、どの試合も似たような戦術で、つまり消耗する戦術で戦わなければならなかった、というところに問題があった。つまり、日本は連戦ができるような戦術を持っていなかった。それは、日本はそもそも連戦を勝ち抜くための戦略を持ってオリンピックに臨んでいなかった、ということだ。
戦略とは、オルタナティブな戦術のほか、手を抜く試合で手を抜くとか、控えの選手を出しても力が落ちないだけの選手層の厚みを持つとか、そういうのをすべて含める。でも、トーナメントで延々と勝ち抜くための戦略を持つ、ということはそれだけ余裕があるチームでないとできない。何度も決勝までたどり着いているようなチームや国がそれだけの余裕を持てるが、36年ぶりの銅メダルを狙う国にはそういう余裕はない。
日本の女子サッカーが決勝までいけたのは、以前W杯で優勝した経験があるからだ。その経験があるから、短期の連戦となるこういうカップでどう戦えばいいかを知っている。選手にも、優勝を前にして臆さないだけのメンタリティーがある。
要するに、男子と女子の差は、経験であり、歴史だ。それが決勝までいけるか、いけないか、の差になった。監督や選手の能力の問題ではなく、そういう経験をつんでいるかいないか、の差である。トーナメントで勝ち抜いた経験が、戦術だけではなく戦略を生む。もしそういう経験が無ければ、体当たりで臨むしかない。メキシコ戦はぐだぐだだったが、それでも男子サッカーはよくやった。
http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20120809/p1
日本は一点目とてもいい形を作って点を取ったが、足が止まり負けた。ぼくが見始めたのは日本の足が止まってからだったが、確かにほんの数秒見ただけでこりゃあだめだと思った。メキシコに同点に追いつかれた時点で、勝てる気が全くしなくなったので見るのをやめた。あれだけ動けないで勝てるということは絶対無い、そう確信させるような試合ぶりだった。実際、二点目はちょんぼからやられた。普通ならあんなミスはありえないというようなミスだった。それもこれも、連戦の疲れのせいだろう。
メキシコ相手には練習試合で勝っている。なので、格上の対戦なので足がすくんだとか、準決勝まで来たので満足していたとか、そういう理由で動けなかったのではないだろう。やはり、ハイプレスで連戦してきたことからの疲れが来たのだと思う。日本が負けたのは必然だっただろう。
日本の敗戦は必然、というのには理由がある。日本は、一戦目から全力でいかなければならなかったために、どうしてもだんだんとコンディションが下がってくる。が、ホンジュラス戦を除いて、どの試合も似たような戦術で、つまり消耗する戦術で戦わなければならなかった、というところに問題があった。つまり、日本は連戦ができるような戦術を持っていなかった。それは、日本はそもそも連戦を勝ち抜くための戦略を持ってオリンピックに臨んでいなかった、ということだ。
戦略とは、オルタナティブな戦術のほか、手を抜く試合で手を抜くとか、控えの選手を出しても力が落ちないだけの選手層の厚みを持つとか、そういうのをすべて含める。でも、トーナメントで延々と勝ち抜くための戦略を持つ、ということはそれだけ余裕があるチームでないとできない。何度も決勝までたどり着いているようなチームや国がそれだけの余裕を持てるが、36年ぶりの銅メダルを狙う国にはそういう余裕はない。
日本の女子サッカーが決勝までいけたのは、以前W杯で優勝した経験があるからだ。その経験があるから、短期の連戦となるこういうカップでどう戦えばいいかを知っている。選手にも、優勝を前にして臆さないだけのメンタリティーがある。
要するに、男子と女子の差は、経験であり、歴史だ。それが決勝までいけるか、いけないか、の差になった。監督や選手の能力の問題ではなく、そういう経験をつんでいるかいないか、の差である。トーナメントで勝ち抜いた経験が、戦術だけではなく戦略を生む。もしそういう経験が無ければ、体当たりで臨むしかない。メキシコ戦はぐだぐだだったが、それでも男子サッカーはよくやった。
2012年8月7日火曜日
さかなクンに学ぶいじめをなくす方法
さかなクンさん(以降敬称省略)がいじめについて書いたすばらしい文章がある。短いので全文引用してみよう。
中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。
でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。
ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。
(朝日新聞2006年12月2日掲載)
http://www.asahi.com/edu/ijime/sakanakun.html
これはとてもよく書けた文章で、簡潔に見事に問題点をまとめていて、しかも実感もこもっている。さかなクンは何度も推敲してこの文章を書いたのだと思う。
さて、この中に、いじめについての解決策が提示されている。それは、一般に言われている、いじめ問題への対策とはまるっきり違う。一般には、子供に命の大切さを教えるのだの、教育委員会改革だの、セーフティネットを作るだの、いろいろと言われている。そのどれもが不可能か、時間がかかりすぎるものばかりだ。
たとえば、子供に命の大切さを教えるということ、それは端的に無理だ。ものごとには、教えることができるものと、自ら学ばなければならないものがある。命の大切さなどというものは、教えられるものではなく、学ぶことしかできないものだ。よってこれはいじめ問題の解決策とはならない。
上の文章の中で、魚さえも狭いところに閉じ込めるといじめだす、というくだりがある。いじめられっこを助けても、ほかの魚がいじめられる。これはさかなクンならでは見事な観察眼だと思う。ここで重要なのは二点ある。第一に、いじめとは、自然に起こりうるものであるということ。いじめが起こりうる環境というのは自然界にはあまりないかもしれないが、動物でもある環境下ではいじめをする。動物までもが自然にすることを、人間が抑止できる、ということはありえない。よって、ある環境下でいじめが起きるというのはいわば必然であり、これを外部から止めることはできない。
第二点は、狭いところに閉じ込めるといじめが起きる、ことが観察されていることだ。これは先ほど書いた、「ある環境下では」ということの意味だ。つまり、問題は環境にあるのであって、構成員にはない。魚一匹一匹は善でも悪でも、命の大切さを知っているわけでも知らないわけでもない。それに関係なく、狭いところにある一定の人数が閉じ込められると、いじめは起きるのだ。これは人間でも同じ。ゆえに、いじめをなくすには、環境を変えればいい。
具体的には、学校のクラス制をまずなくす。科目ごとに違うメンバーで授業を受けるようにして、同じメンバーが固定しないようにする。これだけでいじめはほとんどなくなると思う。これは、学年の人数が多い学校では特に効果があるだろう。それでもいじめが起きるのなら、半年ごとに学校を変えられる、などの自由を生徒に与えればいい。日本では、アメリカみたいな人種差別によるいじめは少ないと思うので、学校でいつも顔をあわすメンバーを多少流動的にするだけで大きな効果が出るはずだ。
詳しくは知らないけれど、欧米の学校にはもともと決まった学級などないのではないだろうか? アメリカ映画なんかの高校とかでは、いつも通路にロッカーがあるが、あれは決まった教室というのがないので、私物をロッカーに入れるしかないからだと思う。それでもアメリカでいじめがあるのは、あそこがそういう国だからだ。といっても、アメリカでのいじめと日本でのいじめは相当質が違うだろうけれど。
問題の解決には、根本のところを変えないといけない。対処療法というのは効果が薄い。理系では常識の考え方だが、ある効果や結果の原因は個々の要素にはなく、関係にある。いじめの原因は、「いまどきの子ども」なのではなく、そうした関係を生み出す環境にある。それを変えるだけで、問題はかなり解消されるだろう。
中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。
でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。
ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。
(朝日新聞2006年12月2日掲載)
http://www.asahi.com/edu/ijime/sakanakun.html
これはとてもよく書けた文章で、簡潔に見事に問題点をまとめていて、しかも実感もこもっている。さかなクンは何度も推敲してこの文章を書いたのだと思う。
さて、この中に、いじめについての解決策が提示されている。それは、一般に言われている、いじめ問題への対策とはまるっきり違う。一般には、子供に命の大切さを教えるのだの、教育委員会改革だの、セーフティネットを作るだの、いろいろと言われている。そのどれもが不可能か、時間がかかりすぎるものばかりだ。
たとえば、子供に命の大切さを教えるということ、それは端的に無理だ。ものごとには、教えることができるものと、自ら学ばなければならないものがある。命の大切さなどというものは、教えられるものではなく、学ぶことしかできないものだ。よってこれはいじめ問題の解決策とはならない。
上の文章の中で、魚さえも狭いところに閉じ込めるといじめだす、というくだりがある。いじめられっこを助けても、ほかの魚がいじめられる。これはさかなクンならでは見事な観察眼だと思う。ここで重要なのは二点ある。第一に、いじめとは、自然に起こりうるものであるということ。いじめが起こりうる環境というのは自然界にはあまりないかもしれないが、動物でもある環境下ではいじめをする。動物までもが自然にすることを、人間が抑止できる、ということはありえない。よって、ある環境下でいじめが起きるというのはいわば必然であり、これを外部から止めることはできない。
第二点は、狭いところに閉じ込めるといじめが起きる、ことが観察されていることだ。これは先ほど書いた、「ある環境下では」ということの意味だ。つまり、問題は環境にあるのであって、構成員にはない。魚一匹一匹は善でも悪でも、命の大切さを知っているわけでも知らないわけでもない。それに関係なく、狭いところにある一定の人数が閉じ込められると、いじめは起きるのだ。これは人間でも同じ。ゆえに、いじめをなくすには、環境を変えればいい。
具体的には、学校のクラス制をまずなくす。科目ごとに違うメンバーで授業を受けるようにして、同じメンバーが固定しないようにする。これだけでいじめはほとんどなくなると思う。これは、学年の人数が多い学校では特に効果があるだろう。それでもいじめが起きるのなら、半年ごとに学校を変えられる、などの自由を生徒に与えればいい。日本では、アメリカみたいな人種差別によるいじめは少ないと思うので、学校でいつも顔をあわすメンバーを多少流動的にするだけで大きな効果が出るはずだ。
詳しくは知らないけれど、欧米の学校にはもともと決まった学級などないのではないだろうか? アメリカ映画なんかの高校とかでは、いつも通路にロッカーがあるが、あれは決まった教室というのがないので、私物をロッカーに入れるしかないからだと思う。それでもアメリカでいじめがあるのは、あそこがそういう国だからだ。といっても、アメリカでのいじめと日本でのいじめは相当質が違うだろうけれど。
問題の解決には、根本のところを変えないといけない。対処療法というのは効果が薄い。理系では常識の考え方だが、ある効果や結果の原因は個々の要素にはなく、関係にある。いじめの原因は、「いまどきの子ども」なのではなく、そうした関係を生み出す環境にある。それを変えるだけで、問題はかなり解消されるだろう。
2012年7月10日火曜日
フランスという国はもうダメ
フランスではこないだ選挙があって大統領が替わった。この国での大統領は日本の天皇と首相なんかより偉いらしく、この国の象徴かつ最高権力者である。
下の記事では、今回の選挙ではサルコジ対オランドが争点なのではなく、妥当かつありうる政権vs極左・極右が争点だったという。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20120424/231362/?P=1
これはどういうことかというと、多くの国民がいまのフランスに限界を感じている、ということだ。失業率は増え続け、物価は上がり続け、社会保障はカットされていく。そういう国で社会不安が広がるのは無理もない。結果どうなるか。
フランスは内向きになった、ということがよく言われるし、長くフランスに住んでいる人ほどそれを感じていると思う。たとえば、パリ大学では、外国人の入学を規制しろとフランス人の学生がマニフェステーションをしたらしい。仕事を持っている外国人は、それがどんな仕事でもvisaを手に入れるのが難しくなり、帰国せざるをえなくなっている。
これは、フランスだけの動きではなく、西ヨーロッパ全体で起きている。イギリスでは、入管で、労働ヴィザによる入国でない外国人が、労働目的で来ているとわかると入国を拒否する。今回のオリンピックでも選手やスタッフなどがイギリスに残って働かないように対策を取っている。
外国人によって仕事を取られるという恐怖、これがいまの西欧を支配しているわけだ。その結果。外国人にしかできない仕事をしている者でも閉め出されてきている。
ヨーロッパに民主主義が根付いているというのはまあ幻想だ。大統領は強権を持ち、異論を握りつぶす。民衆は政治のことも経済のことも理解せず、安易な選択を選ぶ。フランスがそもそも外国人の締め出しをはじめたのは、二回前の選挙の時に極右のルペンが最終候補にまで残って、主流派が右翼の取り込みに走ったからだ。
その結果起こることは、まだ誰も想像していないようだ。しかし、もし日本が幕末に開国せず、外国人排斥を続けたらどうなっただろうか。トルコ帝国が栄えたのは領内の優秀なイラン人を活用したからだ。
外国人がいるということは、その国の人間の雇用を奪うということではなく、外国人によって新たな雇用が生まれる、ということだ。仕事を作るのは人で、雇用はもともとアプリオリに存在するものではない。いまのヨーロッパ人は、高校などで経済学を習っているにもかかわらず、こうした経済の最も基本的なことを理解していない。
彼らは、雇用とはもうそこにあって増えも減りもしない、と考えているようだ。恐ろしいことに、この考えはただの夢想に終わらない。なぜなら、彼らはこの考えを元に社会のシステムを作り、結果として社会を彼らが考えているような誤ったシステムに染め上げてしまうからだ。ドイツはともかく、いまのフランスは新たな産業も企業も起こらず、というかそれを起こすような体制になっておらず、社会として緩やかな死に向かっている。
だが、経済的な衰退だけが外国人排斥によってもたらされるのではない。19世紀以降、ヨーロッパは世界のモデルだった。ヨーロッパで最新のものを学び、それを日本に持ち帰る、というのが日本の進歩にとって必要だった時代が長らくあった。もはやただの意味の無い儀式になっているが、いまでも官僚がパリに留学したりする(彼らが講義についていけるほどのフランス語力をもっているわけではない)。もっとも、いまの多くの日本人はヨーロッパの進んだ文明を見習いにくるというよりも、より文化的な、料理や音楽などのために来るようになってきてはいる。たとえば、フランスの一流レストランで日本人がいないところはない。
いまのヨーロッパは、そうした、文明・文化的中心地としての地位を、目に見えないところでじわじわ進行している外国人排斥運動によって捨てようとしている。それは、まるで自らの愚かさに自らをどっぷりとつけこむようなものだ。しかもこれは、政治の次元で起こっているのではなく、国民の次元で起こっている。そうなったとき、もう誰もその国を救う人はいないし、出てこない。
下の記事では、今回の選挙ではサルコジ対オランドが争点なのではなく、妥当かつありうる政権vs極左・極右が争点だったという。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20120424/231362/?P=1
これはどういうことかというと、多くの国民がいまのフランスに限界を感じている、ということだ。失業率は増え続け、物価は上がり続け、社会保障はカットされていく。そういう国で社会不安が広がるのは無理もない。結果どうなるか。
フランスは内向きになった、ということがよく言われるし、長くフランスに住んでいる人ほどそれを感じていると思う。たとえば、パリ大学では、外国人の入学を規制しろとフランス人の学生がマニフェステーションをしたらしい。仕事を持っている外国人は、それがどんな仕事でもvisaを手に入れるのが難しくなり、帰国せざるをえなくなっている。
これは、フランスだけの動きではなく、西ヨーロッパ全体で起きている。イギリスでは、入管で、労働ヴィザによる入国でない外国人が、労働目的で来ているとわかると入国を拒否する。今回のオリンピックでも選手やスタッフなどがイギリスに残って働かないように対策を取っている。
外国人によって仕事を取られるという恐怖、これがいまの西欧を支配しているわけだ。その結果。外国人にしかできない仕事をしている者でも閉め出されてきている。
ヨーロッパに民主主義が根付いているというのはまあ幻想だ。大統領は強権を持ち、異論を握りつぶす。民衆は政治のことも経済のことも理解せず、安易な選択を選ぶ。フランスがそもそも外国人の締め出しをはじめたのは、二回前の選挙の時に極右のルペンが最終候補にまで残って、主流派が右翼の取り込みに走ったからだ。
その結果起こることは、まだ誰も想像していないようだ。しかし、もし日本が幕末に開国せず、外国人排斥を続けたらどうなっただろうか。トルコ帝国が栄えたのは領内の優秀なイラン人を活用したからだ。
外国人がいるということは、その国の人間の雇用を奪うということではなく、外国人によって新たな雇用が生まれる、ということだ。仕事を作るのは人で、雇用はもともとアプリオリに存在するものではない。いまのヨーロッパ人は、高校などで経済学を習っているにもかかわらず、こうした経済の最も基本的なことを理解していない。
彼らは、雇用とはもうそこにあって増えも減りもしない、と考えているようだ。恐ろしいことに、この考えはただの夢想に終わらない。なぜなら、彼らはこの考えを元に社会のシステムを作り、結果として社会を彼らが考えているような誤ったシステムに染め上げてしまうからだ。ドイツはともかく、いまのフランスは新たな産業も企業も起こらず、というかそれを起こすような体制になっておらず、社会として緩やかな死に向かっている。
だが、経済的な衰退だけが外国人排斥によってもたらされるのではない。19世紀以降、ヨーロッパは世界のモデルだった。ヨーロッパで最新のものを学び、それを日本に持ち帰る、というのが日本の進歩にとって必要だった時代が長らくあった。もはやただの意味の無い儀式になっているが、いまでも官僚がパリに留学したりする(彼らが講義についていけるほどのフランス語力をもっているわけではない)。もっとも、いまの多くの日本人はヨーロッパの進んだ文明を見習いにくるというよりも、より文化的な、料理や音楽などのために来るようになってきてはいる。たとえば、フランスの一流レストランで日本人がいないところはない。
いまのヨーロッパは、そうした、文明・文化的中心地としての地位を、目に見えないところでじわじわ進行している外国人排斥運動によって捨てようとしている。それは、まるで自らの愚かさに自らをどっぷりとつけこむようなものだ。しかもこれは、政治の次元で起こっているのではなく、国民の次元で起こっている。そうなったとき、もう誰もその国を救う人はいないし、出てこない。
2012年5月6日日曜日
セックスレスの原因と理由
相関社会出身の人がこんな記事を書いていた。
セックスレスは日本の国民病?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2006700&media_id=133
彼によると、いまの日本のセックスレスの原因は、女性がより自由になったからだそうだ。でも、これは嘘だと誰もが知っているのではないだろうか? たとえば、表紙がびっくりの『セックスレスな男たち』とか、『求められない女』といった本がある。
これらの本で紹介されているのは、恋人や妻とセックスをしない男たちと、その相手の話なわけだ。だいたい、セックスレスになって被害が大きいのは女性の側だ。日本を含むアジアに住んでいれば男は簡単に風俗で性欲を処理できるが、女性はそうではないからだ。セックスレスになったカップルの女性の側からの報告は悲痛なものが多い。ネットで探せばいくらでも出てくる。
http://www.healing.ac/ask/212.html
セックスレスの原因は性欲の低下ではない。そもそも、人間から性欲がなくなるということはありえない。実際、セックスをパートナーに求めない男は風俗に通う。これはどういうことかというと、性欲と、特定の相手とセックスしたい欲望というのは別だ、ということだ。これはちょっと考えてみれば当たり前のことで、どんな人でも、性欲があるからといって、誰とでもしたいというわけではないだろう。例・その気になれば人間は同性とでもセックスできるが、それを選ばない人の方がいまのところは多い。
人が特定の相手とセックスをしたくなるのは、その相手と一緒にいたり話したりするのが気持ちよくて、身体的接触もまた気持ちがいいときだ。
あるカップルがセックスレスになるのは、それゆえ次の二つの原因からだと思われる。
1.一方が他方と一緒にいたりはなしたりすることに喜びを感じていない
例
http://homepage2.nifty.com/alina/life-100ka/life-sexless-01.htm
2.一方が他方との身体的接触に喜びを感じていない
例
http://blog.kongai.com/?eid=513306#sequel
どちらか一方の理由があるだけでもセックスレスになる。ほかにも原因はあるだろうが、それらはすべて一時的なものであるだろう。避妊法はあるのだから、妊娠が怖い、というのも本当の理由ではないはずだ。
多くの人はそんなことが原因だとは言わないだろう。事実、この記事に関する日記をいろいろ読んでみたが、上の二つが原因だと言う人は一人もいない。こんなことは、あまりに当たり前すぎて気づくことができないのだ。
セックスレスが日本の国民病であるのはぼくもそうだと思う。このことは、日本人が他人と一緒にいたり接触したりする、ということに喜びを見いだしていない、ということだ。これはかなり末期的な状態だと思う。
いままで、誰かと一緒にいて本当に気持ちがよかったことがあるのか、その人との身体的接触が本当に気持ちよかったか。これにyesと応える人の割合は、やはり日本人が世界で一番低いはずだ。人との接触から喜びをえる、ということが日本人はすごく下手というか、それが喜びであること自体をあまり知らない。それがセックスレスの原因であり理由だ。日本人がほかの国の人と比べて性欲が弱いとかそんなことは絶対ない。これはsocialな次元の問題なのだ。
さて、セックスレスになったカップルの話を読むと、どうしてその人と結婚したりつきあったのかがそもそも理解できない、という類いの話が多い。結婚する前はセックスに応じていた女性が結婚後は応じなくなったとか。しかし、相手が自分とのセックスを本当に喜んでいるかなんてつきあっているうちにわかるはずのことだ。というか、「2.一方が他方との身体的接触に喜びを感じていない」の原因は往々にして「1.一方が他方と一緒にいたり話したりすることに喜びを感じていない」であるので、セックスレスなカップルは、そもそもつきあっていること自体が間違っている場合が多い。
そうした状態のカップルが数多く見られるということは、多くの人が自分に合わない相手とつきあっている、ということだ。あるいは、そもそも人と一緒にいたりすることに喜びを感じない者がつっくいている、か。
人と接する直接的な喜びに目覚めないまま人生をすごしていく人がこのまま増えれば、風俗産業はますます栄え、相手にされない片割れの悲痛な叫びがますます世にこだますることになる。その叫びが、人生ではじめて人の心と身体に触れることの大切さに気づいた証である、というのはかなり凄惨な事態だ。
そんななか、下のような、ある本へのレビューには希望がみえる。
http://goo.gl/IJ9jI
以下引用
***************************
***************************
男性の本音や心の機微が綴られているので、恋愛中の人も是非読んでほしいです。
男性が何に傷つき、何に怒るのか。
私も知っているつもりで知らなかったことが
たくさんありましたから。
私自身、好きな人となぜか噛み合わなかったり、距離ができたり、
恋愛で壁にぶつかっているとき読み返すようにしています。
本書はセックスレスを題材にしながら、
男女のコミュニケーションの問題に深く切り込んでいます。
そして、気づかされます。
うまくいかないのは相手の気持ちを慮ってないときで
うまくいくのは相手の気持ちを念頭において行動しているとき。
相手の気持ちに敏感であれば、彼が何に傷つき何に怒るのかが
自ずと分かるようになります。
そして、目的のためには恥や自意識(=プライド)をかなぐり捨てることが大事。
恥ずかしがらずに素直に思いを表現したほうが相手の心に響く。
この正攻法に勝るテクニックはないという事実を、本書が証明してくれています。
結局は、相手に対する想像力や思いやり。
相手を変える前に、自分を変えるべきなんですね。
30歳半ばに差しかかって変にプライドばかり高くなり、
男性に素直に意思表示できなくなっていた私は
本書を読んで大分素直になることができました。
同時に、
「彼に思いやられて当然で、この私が彼を思いやるなんて私らしくない!」という
凝り固まった恋愛スタイル(=プライド)も、ようやく捨てることができました。
本書は永久保存し、折を見て読み返すようにします。
***************************
引用終わり
セックスレスは日本の国民病?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2006700&media_id=133
彼によると、いまの日本のセックスレスの原因は、女性がより自由になったからだそうだ。でも、これは嘘だと誰もが知っているのではないだろうか? たとえば、表紙がびっくりの『セックスレスな男たち』とか、『求められない女』といった本がある。
これらの本で紹介されているのは、恋人や妻とセックスをしない男たちと、その相手の話なわけだ。だいたい、セックスレスになって被害が大きいのは女性の側だ。日本を含むアジアに住んでいれば男は簡単に風俗で性欲を処理できるが、女性はそうではないからだ。セックスレスになったカップルの女性の側からの報告は悲痛なものが多い。ネットで探せばいくらでも出てくる。
http://www.healing.ac/ask/212.html
セックスレスの原因は性欲の低下ではない。そもそも、人間から性欲がなくなるということはありえない。実際、セックスをパートナーに求めない男は風俗に通う。これはどういうことかというと、性欲と、特定の相手とセックスしたい欲望というのは別だ、ということだ。これはちょっと考えてみれば当たり前のことで、どんな人でも、性欲があるからといって、誰とでもしたいというわけではないだろう。例・その気になれば人間は同性とでもセックスできるが、それを選ばない人の方がいまのところは多い。
人が特定の相手とセックスをしたくなるのは、その相手と一緒にいたり話したりするのが気持ちよくて、身体的接触もまた気持ちがいいときだ。
あるカップルがセックスレスになるのは、それゆえ次の二つの原因からだと思われる。
1.一方が他方と一緒にいたりはなしたりすることに喜びを感じていない
例
http://homepage2.nifty.com/alina/life-100ka/life-sexless-01.htm
2.一方が他方との身体的接触に喜びを感じていない
例
http://blog.kongai.com/?eid=513306#sequel
どちらか一方の理由があるだけでもセックスレスになる。ほかにも原因はあるだろうが、それらはすべて一時的なものであるだろう。避妊法はあるのだから、妊娠が怖い、というのも本当の理由ではないはずだ。
多くの人はそんなことが原因だとは言わないだろう。事実、この記事に関する日記をいろいろ読んでみたが、上の二つが原因だと言う人は一人もいない。こんなことは、あまりに当たり前すぎて気づくことができないのだ。
セックスレスが日本の国民病であるのはぼくもそうだと思う。このことは、日本人が他人と一緒にいたり接触したりする、ということに喜びを見いだしていない、ということだ。これはかなり末期的な状態だと思う。
いままで、誰かと一緒にいて本当に気持ちがよかったことがあるのか、その人との身体的接触が本当に気持ちよかったか。これにyesと応える人の割合は、やはり日本人が世界で一番低いはずだ。人との接触から喜びをえる、ということが日本人はすごく下手というか、それが喜びであること自体をあまり知らない。それがセックスレスの原因であり理由だ。日本人がほかの国の人と比べて性欲が弱いとかそんなことは絶対ない。これはsocialな次元の問題なのだ。
さて、セックスレスになったカップルの話を読むと、どうしてその人と結婚したりつきあったのかがそもそも理解できない、という類いの話が多い。結婚する前はセックスに応じていた女性が結婚後は応じなくなったとか。しかし、相手が自分とのセックスを本当に喜んでいるかなんてつきあっているうちにわかるはずのことだ。というか、「2.一方が他方との身体的接触に喜びを感じていない」の原因は往々にして「1.一方が他方と一緒にいたり話したりすることに喜びを感じていない」であるので、セックスレスなカップルは、そもそもつきあっていること自体が間違っている場合が多い。
そうした状態のカップルが数多く見られるということは、多くの人が自分に合わない相手とつきあっている、ということだ。あるいは、そもそも人と一緒にいたりすることに喜びを感じない者がつっくいている、か。
人と接する直接的な喜びに目覚めないまま人生をすごしていく人がこのまま増えれば、風俗産業はますます栄え、相手にされない片割れの悲痛な叫びがますます世にこだますることになる。その叫びが、人生ではじめて人の心と身体に触れることの大切さに気づいた証である、というのはかなり凄惨な事態だ。
そんななか、下のような、ある本へのレビューには希望がみえる。
http://goo.gl/IJ9jI
以下引用
***************************
***************************
男性の本音や心の機微が綴られているので、恋愛中の人も是非読んでほしいです。
男性が何に傷つき、何に怒るのか。
私も知っているつもりで知らなかったことが
たくさんありましたから。
私自身、好きな人となぜか噛み合わなかったり、距離ができたり、
恋愛で壁にぶつかっているとき読み返すようにしています。
本書はセックスレスを題材にしながら、
男女のコミュニケーションの問題に深く切り込んでいます。
そして、気づかされます。
うまくいかないのは相手の気持ちを慮ってないときで
うまくいくのは相手の気持ちを念頭において行動しているとき。
相手の気持ちに敏感であれば、彼が何に傷つき何に怒るのかが
自ずと分かるようになります。
そして、目的のためには恥や自意識(=プライド)をかなぐり捨てることが大事。
恥ずかしがらずに素直に思いを表現したほうが相手の心に響く。
この正攻法に勝るテクニックはないという事実を、本書が証明してくれています。
結局は、相手に対する想像力や思いやり。
相手を変える前に、自分を変えるべきなんですね。
30歳半ばに差しかかって変にプライドばかり高くなり、
男性に素直に意思表示できなくなっていた私は
本書を読んで大分素直になることができました。
同時に、
「彼に思いやられて当然で、この私が彼を思いやるなんて私らしくない!」という
凝り固まった恋愛スタイル(=プライド)も、ようやく捨てることができました。
本書は永久保存し、折を見て読み返すようにします。
***************************
引用終わり
2012年5月4日金曜日
情報の価値とは
数日前に書いたぼくの記事へのコメントについてどうも気になるので考えていたら、どうやら情報というもののについての基本的なリテラシーが共有されていないようだ、ということに気づいた。
どうやら、情報の価値とは何か、ということについて世の中の多くの人は理解していないらしい。そんなことあるはずない、と思うかもしれないが、そうとしか考えられない。
問題は次のように提示された。ぼくが引用したある記事や文章について、それが正しいのかどうか示せ、と言う人がいる。もっともな意見と思われるだろうか? しかし、ぼくがここで「世界は今年終わる」という文章を引用してきて、これは本当だと思う、と書いたら、それを人は信用するのだろうか?
だが、情報の価値とは、それが真か偽か、ということにあるのではない。情報というものの三つの大事なポイントについて話そう。
一.
情報は人に行動を促すために提供される。
こんなことはあまりに当たり前すぎるのでいちいち学校では教えてくれないし、誰もそんなことを言わないと思う。でも、これを理解しないで生きるというのは、とんでもなく危険だ。
たとえば、地震があって、地震研究所では津波がくると言っている、という情報があるとしよう。この情報の価値は、それが真であるか偽であるか、ということにあるだろうか? もし来たら、やったね本当だった、嘘だったら残念、なのか?
もう一回繰り返すと、すべての情報は、人の行動のための判断材料を提供することをその目的とする。残念ながら、一年前の大地震では、多くの人が津波予報を聞きながら避難しなかったという。この人たちは、情報の価値を真か偽か、ということにおいていた人たちだ。津波警報という情報の真の価値は、来たら危険なので避難すべき、という行動を促すところにある。避難しなかった人は、それを理解せず、頭の中だけで完結する情報としてこれを受け取った、ということに問題があるのだ。
情報の価値という問題は、あまりに基本的すぎて誰も気がつかない。しかし、それを意識して生きていく必要がある。
二.
では、どのような情報を元に行動するべきか。
次の二つの情報がある。1.原発がメルトダウンした。危険なので30キロ圏内の人は避難するように。2.原発がメルトダウンした。放射性物質がどこまで飛ぶかはわからないのでできるかぎり遠くへ避難すべき。
この場合、どちらの情報をもとに行動するのがよいだろうか。またしても、問題は真か偽かということではないことに注意する必要がある。とくに、2の情報は詳しいことはわからないが、危険だ、言っている。そんな真か偽かわからない情報を流すんじゃあない、という人、この人たちは情報というものの意味を理解していない人たちだ。
この場合の問題は、どちらの情報をもとに行動した方がリスクが少ないか、ということにある。すると、2の情報をもとに行動する方がリスクが少ないのがわかるだろう。30キロという指針はわかりやすいので、往々にして人はこちらの情報を行動のために選んでしまう。しかしこれは間違いだったことが今になってわかっている。当時の政府を攻める人たちは、2の情報をえていたらその通りに行動した人たちなのだろうか?
情報は行動を促すために提供される。しかし、人がいうすべてのことが有意義な情報なのではない。
三.
情報はつねにソースを提示されるべきである。
誰が言ったかわからない意見を引用しておいて、引用元への参照もなく、それで私はこう思う、というようなものは情報として価値がない。ソースを示さないものは、ただの噂だ。
テレビの一つ一つの報道にしても、つねにソースについて言及している。それが警察の発表だったり、あるいはテレビ局自体の情報収集に基づくものであれ、必ずソースを示している。誰誰が、どこそこの機関がこう言っている、というふうに必ず言われているはずだ。ニュースというのは、テレビ局が真だと信じることを流しているのではない。
ゆえに、メディアが本当のことを言わない、と批判するのは正しくない。メディアが手に入れている情報を全部公にしない、ことについては批判できる。しかし、彼らが持っている情報が真か偽か、ということは彼らにはわからない。聞く側もわからない。三度目だが、情報の価値はその真偽ではない。
ゆえに、情報を提供する側としては、ソースを示して誰かが言っていることを紹介すれば、それでよいのである。それ以上、するべきことはないし、するべきでもない。これこれは本当だと思うとか思わないというのは無責任なおしゃべりにすぎない。あまりに大事なのでもう一回言うが、その情報を受けた側がどう行動するのか、それだけが問題なのだ。
ほんとうか嘘かわからない情報を元に行動なんかできない、という人は、自分の命や財産や時間を絶えず危険にさらすことになる。この情報は本当かどうかわからないけれど、リスクを最小限に減らすよう行動するべき、というのが取るべきマインドだ。なぜか、というと、人が生きるということ、それはさまざまな事実の真偽について知っていく、ということではなく、行動していく、ということだからだ。
今年世界が終わるという情報をもとに宇宙に逃げろ、と言っているわけではない。そのへんは常識で判断してほしい。自分にまったく知識がない分野については、人の言うことを聞き比べて、もっとも取るリスクが少ない行動をしていけばよい。自分はここでどれだけリスクを取るべきか避けるべきか、というのは問題によって異なるだろう。
もう一つわかりやすい例をあげておこう。誰々の言うことによるとあなたが密かに思っていたあの子があなたのことを好きらしい、と誰かがあなたに言う。あなたのするべきことは、その真偽を確かめることなのか、それとも二人の関係を育てるために何か行動をはじめることなのか、どちらか。前者を選ぶ人は、いつになっても自らの人生を生き始めないだろう。だが、世の中の大半はそういう人たちであるらしい。
どうやら、情報の価値とは何か、ということについて世の中の多くの人は理解していないらしい。そんなことあるはずない、と思うかもしれないが、そうとしか考えられない。
問題は次のように提示された。ぼくが引用したある記事や文章について、それが正しいのかどうか示せ、と言う人がいる。もっともな意見と思われるだろうか? しかし、ぼくがここで「世界は今年終わる」という文章を引用してきて、これは本当だと思う、と書いたら、それを人は信用するのだろうか?
だが、情報の価値とは、それが真か偽か、ということにあるのではない。情報というものの三つの大事なポイントについて話そう。
一.
情報は人に行動を促すために提供される。
こんなことはあまりに当たり前すぎるのでいちいち学校では教えてくれないし、誰もそんなことを言わないと思う。でも、これを理解しないで生きるというのは、とんでもなく危険だ。
たとえば、地震があって、地震研究所では津波がくると言っている、という情報があるとしよう。この情報の価値は、それが真であるか偽であるか、ということにあるだろうか? もし来たら、やったね本当だった、嘘だったら残念、なのか?
もう一回繰り返すと、すべての情報は、人の行動のための判断材料を提供することをその目的とする。残念ながら、一年前の大地震では、多くの人が津波予報を聞きながら避難しなかったという。この人たちは、情報の価値を真か偽か、ということにおいていた人たちだ。津波警報という情報の真の価値は、来たら危険なので避難すべき、という行動を促すところにある。避難しなかった人は、それを理解せず、頭の中だけで完結する情報としてこれを受け取った、ということに問題があるのだ。
情報の価値という問題は、あまりに基本的すぎて誰も気がつかない。しかし、それを意識して生きていく必要がある。
二.
では、どのような情報を元に行動するべきか。
次の二つの情報がある。1.原発がメルトダウンした。危険なので30キロ圏内の人は避難するように。2.原発がメルトダウンした。放射性物質がどこまで飛ぶかはわからないのでできるかぎり遠くへ避難すべき。
この場合、どちらの情報をもとに行動するのがよいだろうか。またしても、問題は真か偽かということではないことに注意する必要がある。とくに、2の情報は詳しいことはわからないが、危険だ、言っている。そんな真か偽かわからない情報を流すんじゃあない、という人、この人たちは情報というものの意味を理解していない人たちだ。
この場合の問題は、どちらの情報をもとに行動した方がリスクが少ないか、ということにある。すると、2の情報をもとに行動する方がリスクが少ないのがわかるだろう。30キロという指針はわかりやすいので、往々にして人はこちらの情報を行動のために選んでしまう。しかしこれは間違いだったことが今になってわかっている。当時の政府を攻める人たちは、2の情報をえていたらその通りに行動した人たちなのだろうか?
情報は行動を促すために提供される。しかし、人がいうすべてのことが有意義な情報なのではない。
三.
情報はつねにソースを提示されるべきである。
誰が言ったかわからない意見を引用しておいて、引用元への参照もなく、それで私はこう思う、というようなものは情報として価値がない。ソースを示さないものは、ただの噂だ。
テレビの一つ一つの報道にしても、つねにソースについて言及している。それが警察の発表だったり、あるいはテレビ局自体の情報収集に基づくものであれ、必ずソースを示している。誰誰が、どこそこの機関がこう言っている、というふうに必ず言われているはずだ。ニュースというのは、テレビ局が真だと信じることを流しているのではない。
ゆえに、メディアが本当のことを言わない、と批判するのは正しくない。メディアが手に入れている情報を全部公にしない、ことについては批判できる。しかし、彼らが持っている情報が真か偽か、ということは彼らにはわからない。聞く側もわからない。三度目だが、情報の価値はその真偽ではない。
ゆえに、情報を提供する側としては、ソースを示して誰かが言っていることを紹介すれば、それでよいのである。それ以上、するべきことはないし、するべきでもない。これこれは本当だと思うとか思わないというのは無責任なおしゃべりにすぎない。あまりに大事なのでもう一回言うが、その情報を受けた側がどう行動するのか、それだけが問題なのだ。
ほんとうか嘘かわからない情報を元に行動なんかできない、という人は、自分の命や財産や時間を絶えず危険にさらすことになる。この情報は本当かどうかわからないけれど、リスクを最小限に減らすよう行動するべき、というのが取るべきマインドだ。なぜか、というと、人が生きるということ、それはさまざまな事実の真偽について知っていく、ということではなく、行動していく、ということだからだ。
今年世界が終わるという情報をもとに宇宙に逃げろ、と言っているわけではない。そのへんは常識で判断してほしい。自分にまったく知識がない分野については、人の言うことを聞き比べて、もっとも取るリスクが少ない行動をしていけばよい。自分はここでどれだけリスクを取るべきか避けるべきか、というのは問題によって異なるだろう。
もう一つわかりやすい例をあげておこう。誰々の言うことによるとあなたが密かに思っていたあの子があなたのことを好きらしい、と誰かがあなたに言う。あなたのするべきことは、その真偽を確かめることなのか、それとも二人の関係を育てるために何か行動をはじめることなのか、どちらか。前者を選ぶ人は、いつになっても自らの人生を生き始めないだろう。だが、世の中の大半はそういう人たちであるらしい。
2012年5月3日木曜日
いま科学は健康か
放射能被害については、一定の量以上なら詳しいことがわかっているが、年間100ミリシーベルト以下の場合だとまだよくわからない、ということが言われている。
これは、有意義な結果がまだ確認できていない、ということなのだが、これを利用して、100ミリ以下なら大丈夫だ、と論じる連中がいる。
このエントリーでは、なぜこうした言論が科学的ではないか、そしてなぜこのような言説が生まれてしまうのか、ということを論じる。
去年の原発事故の後、関東で子供の甲状腺異常や、異常な量の鼻血といった事例が数多く報告された。これらは、チェルノブイリにおける被曝の初期症状であると同じである。だが、これらの報告を、そんなことはいつでも起きていることだ、とか、そもそも放射能で甲状腺に異常を引き起こしたり出血はしない、などという連中がいる。そして、こういう連中のよりどころが「科学」なのだ。
知識は、一つの事実から得られるものではない。知識はつねに複数の事実を結びつけることによって得られる。二つの事実を結びつける能力、それが知性である。上の、「科学」を縹渺する連中は、福島とチェルノブイリにおける同様の症状という、二つの事実の関連を消去しようとする。そして、これはとても簡単にできる。
これは、次の三つの方法によってなされる。
1.考えられうる原因の複数性
一つの事実の原因には、つねに複数の理由を与えることができる。これの原因は被曝ではない、ほかにある。確かにこう主張することはできる。これはストレスである云々。
被曝による健康被害よりも、それを気にすることのストレスによる健康被害のほうが大きい、という言説がある。こうした言説を認めると、すべての健康被害は被曝によるものではなく、ストレス性のものとして扱われることになるだろう。
同じような症状を引き起こしえる原因はつねに複数ある。チェルノブイリ後、白ロシアで癌が増えたのはウォッカのせいだ、という者もいる。福島でもし癌被害者が増えても、これと同じことが言われるだろう。そこのお酒が原因だ云々。
この方法は、有意味な統計的事実を無視することに存している。では、統計的事実をきちんと重んじれば、被曝による健康被害を正確に把握できるのかというと、必ずしもそうではない。
2.確率論的変換
被爆被害の統計というのは、この程度の被爆だと数パーセント癌が増える、といったものだ。重要なのは、これは個々の症状の原因を特定するために使うことはできない、ということだ。たとえば被曝後、癌になったとしても、上の「考えられうる原因の複数性」を論拠として、これは被曝が原因ではない、と主張することはつねにできる。
つまり、統計的事実が、単なる確率論上の推測へと変換されてしまうということだ。これが積み重なり、個々の症例がすべて疑われれば、どんなに有意味な数値が統計上出ていても、原因はほかにある、と主張することができてしまう。たとえば、上のウォッカ原因説のように。
3.事実の否認
この方法が最も簡単である。患者本人には明らかにでている症状であるのに、「気のせいだ」としてしまえばよい。こうすればそもそも数値に上がってこない。日本の医療は誠実でありえるかというと、それはきわめて疑わしい。
そもそも、ある病気の認定というのは実はとても不安定なものだ。医者というのは、誰もが知っているわかりすい症状を訴える患者に対してはすぐに病名を診断できるが、聞いたことのない症状だとすぐには診断できない。それどころか、それに対応する病気を知らないために、それは病気ではない、と診断することが往々にしてある。
1.2.3に共通する態度は、ある症状の原因を恣意的に想定したり、あるいは想定しないことによって、すでに起きている複数の事実間の有意味な連関を見ない、ということだ。なぜこういう態度が生じるのか、ということが問題だ。
それは、人間は、事実から原因を探るのではなく、すでに知っている原因をもとに事実について判断することになれているからだ。事実→原因、ではなく、原因→事実への方向に思考する。すると、原因を知らない事実の存在を無視したり否認したりする、ということが起こる。これは、誰もが日常的に体験する思考の特性だと思う。
だが、科学というのは、それがどんな原因かまだわからない事実について、その近接原因を探求する、ということにその真の価値がある。すでに知られている理論をいまある事実に当てはめて理解する、というのは、科学的探求の結果、得られる理論を元にしている。つまり、1.はじめに事実に基づく探求があり、2.次に理論の構築があり、3.さらにそれによる多様な現象の理解への応用がある。3の部分だけを取り出して「科学的」とのたまう人間は、科学とは何かについて一度も考えたことがないのである。
科学的手法により得られた有意味な統計事実を無視して、個々の症例の原因を恣意的に推測する、というのは科学的ではない。しかし、それは科学的な衣装をまというる。たとえば、ストレスによって癌が生じうるのは科学的事実だ。それのデータだけ見せて、被曝による原因が疑われるデータは無視すればよい。すると、この世から被曝による健康被害は存在しなくなる。
つまり、これは科学というより、誠実さの問題なのだ。人がすでに知っているはずの事実が、もう一つの事実と関連していることを認めるのか、そうでないのか。
ぼくの見るところ、こうした誠実さを保った上で、なおかつ上で述べた科学的手法によって、まだ未知のある現象の原因を、事実に直接当たることによって収集して研究し、その結果を公に発言している科学者というのはほとんどいない。彼らはみな、大きな現象の中のある細かな事実と細かな事実の細かな関連について研究し、その成果がかろうじて認められただけで、被曝の影響と健康被害の原因との関連、のような大きなことについて研究したわけではないし、きちんと調べたわけでもない。そういう学者が、すでに知られていることを恣意的に用いて、いまある事実を恣意的に説明している、というが昨今の流行なのだ。というか、そういう連中が健康な科学的精神をそもそも持っているか、ということからして疑わしい。というのも、多くの科学的実験というものは、すでに知られているある現象の原因を、ほかの現象に当てはめて説明した、というのがほとんどだからだ。ここには、真の科学的精神の発露の機会はあまりない。
いまのところ、被曝による被害は、統計上でまず確認できるが、個々の症例の診断において直ちに被曝が原因と特定できるわけではない。だが、統計学的事実というのは偶然の産物ではない。個々の症例の発症は偶然であるが、それがある母集団において一定の割合で確認できる、というのは確かな事実である。
しかし、これをわざとかどうか知らないが取り違えて、原因はほかにありうる、と主張する連中は、往々にしてその根拠となる数値をまったく出してこない。こいつらは、ちっぽけな自己満足と引き替えに他人の健康を売り渡すことを何とも思わない小賢しい人間のクズだ。
科学は、最も有意味に現れている事実の連関を最も重視していくことにその意義がある。ある人の不調の原因は二世代前の祖先の呪いだ、という命題は、有意味な事実の連関を確認できないので、科学的なものたりえない。急増した癌の原因はウォッカだというのは、有意味な事実の連関をより有意味でない事実の連関に意図的に置き換えようとしているので、科学的ではない。
福島とチェルノブイリの事故の後、似たような健康障害が出た、というのは、Aという共通の現象の後、共通のBという結果が得られた、というもので、確認できた二つの事実の相関関係(原発事故のあとの症状が・・・)が、それぞれ相関関係にある(同じ症状である)、ということだ。二つの事実の相関関係だけでは因果関係の十分条件を満たすに過ぎないが、二つの相関関係にそれぞれ相関性がある、というのは必要条件をも満たすのではないだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%96%A2%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%A8%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E9%96%A2%E4%BF%82
広範囲に分布している内部被曝者への実態調査が大幅に遅れたのは、被曝で健康被害は起きないとか、いま起きている症状は被曝が原因とは言えない、という無責任で小賢しい世論の声に後押しされたからだだろう。有意味な事実の連関を把握するためにも、まずは調査が必要であるのに、それをしてこなかった。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2012/02/post_3290.html
日本人は、偽の科学的精神にだまされ、自らの首を絞めたのである。
これは、有意義な結果がまだ確認できていない、ということなのだが、これを利用して、100ミリ以下なら大丈夫だ、と論じる連中がいる。
このエントリーでは、なぜこうした言論が科学的ではないか、そしてなぜこのような言説が生まれてしまうのか、ということを論じる。
去年の原発事故の後、関東で子供の甲状腺異常や、異常な量の鼻血といった事例が数多く報告された。これらは、チェルノブイリにおける被曝の初期症状であると同じである。だが、これらの報告を、そんなことはいつでも起きていることだ、とか、そもそも放射能で甲状腺に異常を引き起こしたり出血はしない、などという連中がいる。そして、こういう連中のよりどころが「科学」なのだ。
知識は、一つの事実から得られるものではない。知識はつねに複数の事実を結びつけることによって得られる。二つの事実を結びつける能力、それが知性である。上の、「科学」を縹渺する連中は、福島とチェルノブイリにおける同様の症状という、二つの事実の関連を消去しようとする。そして、これはとても簡単にできる。
これは、次の三つの方法によってなされる。
1.考えられうる原因の複数性
一つの事実の原因には、つねに複数の理由を与えることができる。これの原因は被曝ではない、ほかにある。確かにこう主張することはできる。これはストレスである云々。
被曝による健康被害よりも、それを気にすることのストレスによる健康被害のほうが大きい、という言説がある。こうした言説を認めると、すべての健康被害は被曝によるものではなく、ストレス性のものとして扱われることになるだろう。
同じような症状を引き起こしえる原因はつねに複数ある。チェルノブイリ後、白ロシアで癌が増えたのはウォッカのせいだ、という者もいる。福島でもし癌被害者が増えても、これと同じことが言われるだろう。そこのお酒が原因だ云々。
この方法は、有意味な統計的事実を無視することに存している。では、統計的事実をきちんと重んじれば、被曝による健康被害を正確に把握できるのかというと、必ずしもそうではない。
2.確率論的変換
被爆被害の統計というのは、この程度の被爆だと数パーセント癌が増える、といったものだ。重要なのは、これは個々の症状の原因を特定するために使うことはできない、ということだ。たとえば被曝後、癌になったとしても、上の「考えられうる原因の複数性」を論拠として、これは被曝が原因ではない、と主張することはつねにできる。
つまり、統計的事実が、単なる確率論上の推測へと変換されてしまうということだ。これが積み重なり、個々の症例がすべて疑われれば、どんなに有意味な数値が統計上出ていても、原因はほかにある、と主張することができてしまう。たとえば、上のウォッカ原因説のように。
3.事実の否認
この方法が最も簡単である。患者本人には明らかにでている症状であるのに、「気のせいだ」としてしまえばよい。こうすればそもそも数値に上がってこない。日本の医療は誠実でありえるかというと、それはきわめて疑わしい。
そもそも、ある病気の認定というのは実はとても不安定なものだ。医者というのは、誰もが知っているわかりすい症状を訴える患者に対してはすぐに病名を診断できるが、聞いたことのない症状だとすぐには診断できない。それどころか、それに対応する病気を知らないために、それは病気ではない、と診断することが往々にしてある。
1.2.3に共通する態度は、ある症状の原因を恣意的に想定したり、あるいは想定しないことによって、すでに起きている複数の事実間の有意味な連関を見ない、ということだ。なぜこういう態度が生じるのか、ということが問題だ。
それは、人間は、事実から原因を探るのではなく、すでに知っている原因をもとに事実について判断することになれているからだ。事実→原因、ではなく、原因→事実への方向に思考する。すると、原因を知らない事実の存在を無視したり否認したりする、ということが起こる。これは、誰もが日常的に体験する思考の特性だと思う。
だが、科学というのは、それがどんな原因かまだわからない事実について、その近接原因を探求する、ということにその真の価値がある。すでに知られている理論をいまある事実に当てはめて理解する、というのは、科学的探求の結果、得られる理論を元にしている。つまり、1.はじめに事実に基づく探求があり、2.次に理論の構築があり、3.さらにそれによる多様な現象の理解への応用がある。3の部分だけを取り出して「科学的」とのたまう人間は、科学とは何かについて一度も考えたことがないのである。
科学的手法により得られた有意味な統計事実を無視して、個々の症例の原因を恣意的に推測する、というのは科学的ではない。しかし、それは科学的な衣装をまというる。たとえば、ストレスによって癌が生じうるのは科学的事実だ。それのデータだけ見せて、被曝による原因が疑われるデータは無視すればよい。すると、この世から被曝による健康被害は存在しなくなる。
つまり、これは科学というより、誠実さの問題なのだ。人がすでに知っているはずの事実が、もう一つの事実と関連していることを認めるのか、そうでないのか。
ぼくの見るところ、こうした誠実さを保った上で、なおかつ上で述べた科学的手法によって、まだ未知のある現象の原因を、事実に直接当たることによって収集して研究し、その結果を公に発言している科学者というのはほとんどいない。彼らはみな、大きな現象の中のある細かな事実と細かな事実の細かな関連について研究し、その成果がかろうじて認められただけで、被曝の影響と健康被害の原因との関連、のような大きなことについて研究したわけではないし、きちんと調べたわけでもない。そういう学者が、すでに知られていることを恣意的に用いて、いまある事実を恣意的に説明している、というが昨今の流行なのだ。というか、そういう連中が健康な科学的精神をそもそも持っているか、ということからして疑わしい。というのも、多くの科学的実験というものは、すでに知られているある現象の原因を、ほかの現象に当てはめて説明した、というのがほとんどだからだ。ここには、真の科学的精神の発露の機会はあまりない。
いまのところ、被曝による被害は、統計上でまず確認できるが、個々の症例の診断において直ちに被曝が原因と特定できるわけではない。だが、統計学的事実というのは偶然の産物ではない。個々の症例の発症は偶然であるが、それがある母集団において一定の割合で確認できる、というのは確かな事実である。
しかし、これをわざとかどうか知らないが取り違えて、原因はほかにありうる、と主張する連中は、往々にしてその根拠となる数値をまったく出してこない。こいつらは、ちっぽけな自己満足と引き替えに他人の健康を売り渡すことを何とも思わない小賢しい人間のクズだ。
科学は、最も有意味に現れている事実の連関を最も重視していくことにその意義がある。ある人の不調の原因は二世代前の祖先の呪いだ、という命題は、有意味な事実の連関を確認できないので、科学的なものたりえない。急増した癌の原因はウォッカだというのは、有意味な事実の連関をより有意味でない事実の連関に意図的に置き換えようとしているので、科学的ではない。
福島とチェルノブイリの事故の後、似たような健康障害が出た、というのは、Aという共通の現象の後、共通のBという結果が得られた、というもので、確認できた二つの事実の相関関係(原発事故のあとの症状が・・・)が、それぞれ相関関係にある(同じ症状である)、ということだ。二つの事実の相関関係だけでは因果関係の十分条件を満たすに過ぎないが、二つの相関関係にそれぞれ相関性がある、というのは必要条件をも満たすのではないだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%96%A2%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%A8%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E9%96%A2%E4%BF%82
広範囲に分布している内部被曝者への実態調査が大幅に遅れたのは、被曝で健康被害は起きないとか、いま起きている症状は被曝が原因とは言えない、という無責任で小賢しい世論の声に後押しされたからだだろう。有意味な事実の連関を把握するためにも、まずは調査が必要であるのに、それをしてこなかった。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2012/02/post_3290.html
日本人は、偽の科学的精神にだまされ、自らの首を絞めたのである。
2012年5月2日水曜日
放射線被害を理解するための5つの区別
放射線による被害、被曝については、最低でも次に挙げる5つの区別をする必要がある。ぼくがネットで見る限り、この区別が全部きちんとできている人は何らかの専門家、アマチュアを問わず、ごく少ない。基本的なことは下で読めるのだが・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E6%9B%9D#.E3.83.9A.E3.83.88.E3.82.AB.E3.82.A6.E5.8A.B9.E6.9E.9C
1.内部被曝と外部被曝
よく、多少の放射線は体にいい、みたいな意見を目にする。これは、ホルミシス効果と呼ばれるもののことだ。参考文献はこれ
ほんとか嘘かはおいておいて、これは外部被曝の場合のお話。プルトニウムが崩壊するときに出すα線は紙一枚で遮断できる、というのもやはり外部被曝の場合。
放射性物質が体内に取り込まれた場合、それを内部被曝と言う。取り込まれた放射性物質はそれが体外に出されるまで、放射線を出し続ける。セシウム137が崩壊して半分になるのにかかかるのが30年。
「従来の放射線被曝の分析では、外部被曝と内部被曝の区別よりも、浴びた放射線の強さ(線量)と障害の関係の解明に主眼が置かれていた。だが最近の研究では、体内に入った放射性微粒子による低線量の放射線に長時間さらされると、遺伝子の修復能力が損なわれ、細胞周期の早い生殖細胞や造血機能(骨髄)、胎児などに障害を生じる可能性が指摘されている」
http://serv.peace.hiroshima-cu.ac.jp/fkiroku/article57.htm
2.経口摂取と吸入摂取
どうやって体に取り込まれるか。呼吸によって肺に取り込まれる場合と、食物と一緒に胃や腸に入り込む場合がある。後者の場合、体はウランやセシウムを吸収しないので、比較的早期に排出されると言われている。前者の場合、臓器にたまり、すべて崩壊するまで放射線を出し続ける。放射性物質がすべて崩壊するまでには、だいたい半減期の10倍かかる。
3.土壌汚染と空気汚染
関東土壌汚染マップというのが策定されている。これによると、福島はかなり汚染されていることがわかる。
http://konstantin.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/08/30/110830_nouchi.jpg
もちろん、放射性物質がたまりやすい場所とそうでない場所がある。東京は大丈夫かというと、ガンダーセンが東京で採取した土からはいずれも高濃度の汚染が確認された。
土壌汚染などたいしたことはないと考えるかもしれない。確かに、放射性物質の経口摂取は被害が少ないことをすでに述べた。だが、土壌にあるということは、それ以前には空気中にあった、ということだ。ここに空気汚染のシミュレーション動画がある。事故後、どのようにして放射性物質が空気中に拡散していったかがよくわかる。
福島第一発電所では、1号機の原子炉建屋が3月12日午後に水素爆発を起こしたのに続き、14日午前に3号機が水素爆発した。
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-841.html
水素爆発だというのは公式な発表だが、バズビー氏は核爆発だと言っている。これが本当ならとんでもないことだ。もちろん、この情報を疑う人もいる。
http://agora-web.jp/archives/1420660.html
とにかく確かなことは、水素爆発にせよ核爆発にせよ、空気中に放射性物質が拡散されたことだ。「プルトニウムは重いので飛ばない」、と言った人も、「水素爆発でガスになって飛んだりしなければ」と言っていた。つまり、この事故によってセシウムやヨウ素だけでなく、各種プルトニウムも空中に散布されたのである。事実、三十キロ地点の土からもさまざまなプルトニウムが検出されていきている
http://goo.gl/ibBtf
ちなみに、空気汚染についてはこちら。
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E2E4E2E6918DE2E4E3E2E0E2E3E39180EAE2E2E2
農業用地における汚染というのは、そこで撮れる食物によりこれからも汚染が続く、ということ。空気汚染はただちに危険、ということ。
3の要点は、空気と土は違う、ということ。こんなことは学校で習わなかったという人はいますぐ違いを調べること。参考文献はこれ
1.2.3.と合わせると、空気に漂っている放射性物質を吸引摂取した場合の内部被曝が最も怖い、ということがわかる。
それ以外の場合の例を持ち出して、放射能は安全というのは全部正しくない。
すでに触れたように、微量の放射線なら大丈夫という報告がある。危険な域として認識できるのは年間100ミリシーベルトからだ、というがあるところでは通説になっている
そのうえ、この100ミリという数値は外部被曝のものであり、内部被曝のものではない。ペドカワ効果により、100ミリよりはるかに少ない量で細胞や遺伝子に害を与える、ということが言われている。生命による自己修復機能を計算に入れても、これは無視できない要因だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%82%AB%E3%82%A6%E5%8A%B9%E6%9E%9C
そこで、内部被曝の危険性は外部被曝の600倍と言われている。これが本当なら、内部被曝であれば0.16ミリシーベルトでも有意な形で癌になる危険性が高まるということになる。
たとえば次のような個人による報告がある。
東京都民「検査したら6000ベクレル内部被曝してた」
***************
北海道がんセンターで、ホールボディカウンターを受けてきました。
測定結果、内部被曝していました。セシウム137が、868bq セシウム134が、6373bq
http://alfalfalfa.com/archives/4129002.html
**************
ベクレルは物質における放射能の強さ。1秒間に1つの原子核が崩壊する放射能の量が1 ベクレル。
これを生体の被曝による生物学的影響の大きさの単位であるシーベルトに変換すると、体にどれだけ危険かってのがわかる。詳しくは下のリンク先を参照。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/attach/1314239.htm
次のページでセシウム134の6373ベクレルをシーベルトに換算する
http://panflute.p.u-tokyo.ac.jp/~kyo/dose/
ICPRの基準をもとに計算すると、経口摂取で取り込んでいた場合は0.08ミリ、緩慢な吸入摂取の場合は0.25ミリシーベルトとなった。
まあ経口摂取だったなら健康になっちゃうレベルだ、という人もいるかもしれない。
だが、これは大人の場合だ。子供の場合は摂取シーベルトの値が変わってくる。
4.大人と子供
同じベクレル数を3ヶ月の幼児が緩慢に吸入摂取した場合、0.7ミリシーベルトになる。600倍すると年間で420ミリシーベルト。
子供は大人と同じものを食べ、同じ空気を吸っていたとしても受ける影響が違ってくる。この四つ目の区別が一番大切だ。
子供にとっては、放射性物質の吸引摂取だけでなく、経口摂取も外部被曝も大人よりはるかに大きな影響を与えうる。子供は体が小さく、地面により近くを歩く。とくに免疫系や甲状腺に影響が出やすい。アメリカで新生児が大量に死んでいた、という報告がある。
人工放射線に対して、大人には年間1ミリ、子供には年間0.5ミリでも避けるべきだと言われている。
たとえば、放射線下作業に従事する労働者の労災基準を見てみると、白血病の労災基準の認定が年間5ミリシーベルト。35年間で6人認定。
5.人工放射線と自然放射線
さて、自然界には放射性物質があるし、宇宙からも降り注いでいる。これは多いところでは年間10ミリシーベルトになるそうだ。また、食物からもカリウム40という放射性物質を取り込んでいる。
http://www.fepc.or.jp/learn/houshasen/seikatsu/shizenhoushasen/index.html
これを持ち出して、放射能は安全という論をはる輩もいるが、人工放射線と自然放射線は違う。核種の動きが違うからだ。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_H_S1.html
実際、同じ放射性物質であり、同じようにその影響はシーベルトで計られるとは言え、それぞれ異なる影響を与えると考えた方がいい。たとえば、アルファ派と中性子派ではまったく違う。
だが、理論的なことがらを云々してもあまり意味がない。一つ一つの専門分野の知見は狭い。たとえば物理学の知識では人体への被害については語れない。一人の専門家が、放射線とその被害について、すべてを語ることはできない。これは専門家であれば誰もが理解できることのはずだが、それをわざと知らないふりをしている人間が多い。
さらに言えば、年間100ミリシーベルト以下の被曝では「科学的に健康被害が確認できていない」、ということは、「なら安全」、ということとイコールではない。まだわかっていない、ということだ。この二つは大きく違う。これもまた混同されて使われている言い回しだ
---------------------------
では、何に注目すべきか。事実にである。これには二つある。統計学的な事実と、過去の事例と比較した事実。
たとえば、福島で健康被害が報告されている。これは個々の事例だが、過去の事例と似通っている。
言うまでもないことだが、癌というのはさまざまな症状を伴う。さまざまな体調不良のあと、死ぬのだ。それ以外にも、被曝は多様な症状を生み出す。
福島とチェルノブイリは違う、という意見がある。確かにそうだろう。しかし、セシウムやプルトニウムが福島ではチェルノブイリと違う作用を見せるだろうか。子供たちにおきる健康被害はまったく別のものになるとでも言うのだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E6%9B%9D#.E3.83.9A.E3.83.88.E3.82.AB.E3.82.A6.E5.8A.B9.E6.9E.9C
1.内部被曝と外部被曝
よく、多少の放射線は体にいい、みたいな意見を目にする。これは、ホルミシス効果と呼ばれるもののことだ。参考文献はこれ
放射性物質が体内に取り込まれた場合、それを内部被曝と言う。取り込まれた放射性物質はそれが体外に出されるまで、放射線を出し続ける。セシウム137が崩壊して半分になるのにかかかるのが30年。
「従来の放射線被曝の分析では、外部被曝と内部被曝の区別よりも、浴びた放射線の強さ(線量)と障害の関係の解明に主眼が置かれていた。だが最近の研究では、体内に入った放射性微粒子による低線量の放射線に長時間さらされると、遺伝子の修復能力が損なわれ、細胞周期の早い生殖細胞や造血機能(骨髄)、胎児などに障害を生じる可能性が指摘されている」
http://serv.peace.hiroshima-cu.ac.jp/fkiroku/article57.htm
1の要点は、体の外と内は違う、ということ。こんなことは学校で習わなかったという人はいますぐ違いを調べること。参考文献はこれ
2.経口摂取と吸入摂取
どうやって体に取り込まれるか。呼吸によって肺に取り込まれる場合と、食物と一緒に胃や腸に入り込む場合がある。後者の場合、体はウランやセシウムを吸収しないので、比較的早期に排出されると言われている。前者の場合、臓器にたまり、すべて崩壊するまで放射線を出し続ける。放射性物質がすべて崩壊するまでには、だいたい半減期の10倍かかる。
2の要点は、呼吸と飲食は違う、ということ。こんなことは学校で習わなかったという人はいますぐ違いを調べること。参考文献はこれ
3.土壌汚染と空気汚染
関東土壌汚染マップというのが策定されている。これによると、福島はかなり汚染されていることがわかる。
http://konstantin.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/08/30/110830_nouchi.jpg
もちろん、放射性物質がたまりやすい場所とそうでない場所がある。東京は大丈夫かというと、ガンダーセンが東京で採取した土からはいずれも高濃度の汚染が確認された。
土壌汚染などたいしたことはないと考えるかもしれない。確かに、放射性物質の経口摂取は被害が少ないことをすでに述べた。だが、土壌にあるということは、それ以前には空気中にあった、ということだ。ここに空気汚染のシミュレーション動画がある。事故後、どのようにして放射性物質が空気中に拡散していったかがよくわかる。
福島第一発電所では、1号機の原子炉建屋が3月12日午後に水素爆発を起こしたのに続き、14日午前に3号機が水素爆発した。
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-841.html
水素爆発だというのは公式な発表だが、バズビー氏は核爆発だと言っている。これが本当ならとんでもないことだ。もちろん、この情報を疑う人もいる。
http://agora-web.jp/archives/1420660.html
とにかく確かなことは、水素爆発にせよ核爆発にせよ、空気中に放射性物質が拡散されたことだ。「プルトニウムは重いので飛ばない」、と言った人も、「水素爆発でガスになって飛んだりしなければ」と言っていた。つまり、この事故によってセシウムやヨウ素だけでなく、各種プルトニウムも空中に散布されたのである。事実、三十キロ地点の土からもさまざまなプルトニウムが検出されていきている
http://goo.gl/ibBtf
ちなみに、空気汚染についてはこちら。
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E2E4E2E6918DE2E4E3E2E0E2E3E39180EAE2E2E2
農業用地における汚染というのは、そこで撮れる食物によりこれからも汚染が続く、ということ。空気汚染はただちに危険、ということ。
3の要点は、空気と土は違う、ということ。こんなことは学校で習わなかったという人はいますぐ違いを調べること。参考文献はこれ
1.2.3.と合わせると、空気に漂っている放射性物質を吸引摂取した場合の内部被曝が最も怖い、ということがわかる。
それ以外の場合の例を持ち出して、放射能は安全というのは全部正しくない。
すでに触れたように、微量の放射線なら大丈夫という報告がある。危険な域として認識できるのは年間100ミリシーベルトからだ、というがあるところでは通説になっている
ICPRによれば、年間100ミリシーベルトの被曝で高まる発がん率は0.5パー、200人に一人とされている。しかし、この数字は被曝量と発症者ともに過小評価された上での数値ではないか、という指摘がされている。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/2cee0b9f12a2ea7ca58f4a2bc94df78a
考えてみよう。ここに、少ない量だったら健康になる薬がある。しかしある量を超えると癌になる可能性が高まる。それをあなたは取るか。癌というのは、すごい病気である。100ミリ以下だと、癌だけでなくほかの小さな病気や健康障害なんかもまったくない、というのはありえないし非科学的だ。癌になる可能性が高まる、ということは、それよりもっと高い可能性でほかの病気になる可能性が高まる、ということだ。
http://takedanet.com/2011/04/481_ecc3.html
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/2cee0b9f12a2ea7ca58f4a2bc94df78a
考えてみよう。ここに、少ない量だったら健康になる薬がある。しかしある量を超えると癌になる可能性が高まる。それをあなたは取るか。癌というのは、すごい病気である。100ミリ以下だと、癌だけでなくほかの小さな病気や健康障害なんかもまったくない、というのはありえないし非科学的だ。癌になる可能性が高まる、ということは、それよりもっと高い可能性でほかの病気になる可能性が高まる、ということだ。
http://takedanet.com/2011/04/481_ecc3.html
そのうえ、この100ミリという数値は外部被曝のものであり、内部被曝のものではない。ペドカワ効果により、100ミリよりはるかに少ない量で細胞や遺伝子に害を与える、ということが言われている。生命による自己修復機能を計算に入れても、これは無視できない要因だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%82%AB%E3%82%A6%E5%8A%B9%E6%9E%9C
そこで、内部被曝の危険性は外部被曝の600倍と言われている。これが本当なら、内部被曝であれば0.16ミリシーベルトでも有意な形で癌になる危険性が高まるということになる。
たとえば次のような個人による報告がある。
東京都民「検査したら6000ベクレル内部被曝してた」
***************
北海道がんセンターで、ホールボディカウンターを受けてきました。
測定結果、内部被曝していました。セシウム137が、868bq セシウム134が、6373bq
http://alfalfalfa.com/archives/4129002.html
**************
ベクレルは物質における放射能の強さ。1秒間に1つの原子核が崩壊する放射能の量が1 ベクレル。
これを生体の被曝による生物学的影響の大きさの単位であるシーベルトに変換すると、体にどれだけ危険かってのがわかる。詳しくは下のリンク先を参照。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/attach/1314239.htm
次のページでセシウム134の6373ベクレルをシーベルトに換算する
http://panflute.p.u-tokyo.ac.jp/~kyo/dose/
ICPRの基準をもとに計算すると、経口摂取で取り込んでいた場合は0.08ミリ、緩慢な吸入摂取の場合は0.25ミリシーベルトとなった。
まあ経口摂取だったなら健康になっちゃうレベルだ、という人もいるかもしれない。
だが、これは大人の場合だ。子供の場合は摂取シーベルトの値が変わってくる。
4.大人と子供
同じベクレル数を3ヶ月の幼児が緩慢に吸入摂取した場合、0.7ミリシーベルトになる。600倍すると年間で420ミリシーベルト。
子供は大人と同じものを食べ、同じ空気を吸っていたとしても受ける影響が違ってくる。この四つ目の区別が一番大切だ。
人工放射線に対して、大人には年間1ミリ、子供には年間0.5ミリでも避けるべきだと言われている。
たとえば、放射線下作業に従事する労働者の労災基準を見てみると、白血病の労災基準の認定が年間5ミリシーベルト。35年間で6人認定。
http://www.47news.jp/CN/201104/CN2011042801000030.html
多発性骨髄腫を発症した人は四年間で70ミリ、年間17.5ミリシーベルトを浴びていた。「放射線下作業に従事する労働者の被曝限度は、電離放射線障害防止規則で、年間50mSv」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1160650626
もし年間100ミリでもOKだというのなら、なぜ5ミリ程度で労災が下りるのだろうか? 多発性骨髄腫を発症した人は四年間で70ミリ、年間17.5ミリシーベルトを浴びていた。「放射線下作業に従事する労働者の被曝限度は、電離放射線障害防止規則で、年間50mSv」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1160650626
5.人工放射線と自然放射線
さて、自然界には放射性物質があるし、宇宙からも降り注いでいる。これは多いところでは年間10ミリシーベルトになるそうだ。また、食物からもカリウム40という放射性物質を取り込んでいる。
http://www.fepc.or.jp/learn/houshasen/seikatsu/shizenhoushasen/index.html
これを持ち出して、放射能は安全という論をはる輩もいるが、人工放射線と自然放射線は違う。核種の動きが違うからだ。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_H_S1.html
実際、同じ放射性物質であり、同じようにその影響はシーベルトで計られるとは言え、それぞれ異なる影響を与えると考えた方がいい。たとえば、アルファ派と中性子派ではまったく違う。
だが、理論的なことがらを云々してもあまり意味がない。一つ一つの専門分野の知見は狭い。たとえば物理学の知識では人体への被害については語れない。一人の専門家が、放射線とその被害について、すべてを語ることはできない。これは専門家であれば誰もが理解できることのはずだが、それをわざと知らないふりをしている人間が多い。
さらに言えば、年間100ミリシーベルト以下の被曝では「科学的に健康被害が確認できていない」、ということは、「なら安全」、ということとイコールではない。まだわかっていない、ということだ。この二つは大きく違う。これもまた混同されて使われている言い回しだ
---------------------------
では、何に注目すべきか。事実にである。これには二つある。統計学的な事実と、過去の事例と比較した事実。
たとえば、福島で健康被害が報告されている。これは個々の事例だが、過去の事例と似通っている。
なにか症状が出て、国が保障してくれるかというと、それはまずない。
東京の人の体からセシウム134が6373ベクレル出た、というのは、もはや東京は高濃度汚染されている、ということだ。子供にとってはすでに危険なレベルにある。
福島とチェルノブイリは違う、という意見がある。確かにそうだろう。しかし、セシウムやプルトニウムが福島ではチェルノブイリと違う作用を見せるだろうか。子供たちにおきる健康被害はまったく別のものになるとでも言うのだろうか。
2012年5月1日火曜日
情報弱者からいかに抜け出るか
情報弱者、いわゆる「情弱」の原因にはいくつかある。いかにそれを克服し、抜け出すか。それが今日の大きな教育的課題だ。
日々多様な情報がいきかう現代社会では、情報はつねに断片的に提供され、大きな見取り図を持つことが難しい。テレビではなく、新聞、本などにあたることでそれが解決されるかもしれない。だが、対立する様々な情報が飛び交う中、それの真偽を見極めることはますます難しくなっている。
情報は最終的には、自分の行動を導くための判断へと集約される。そして情報には、1.基本的かつ一般的な知識、2.特殊な知識、3.直接行動を促す結論、大まかに分けてこの三つがある。
栄養学で言えば、1は栄養学上の言葉や概念、2はたとえば、炭水化物だけで生きている人の話、3は「よってタンパク質は生存には必要ではない」あるいは「炭水化物だけで生きるのは特殊な人」というような判断。3の情報をもとに日々の行動が決定されていく。
これを踏まえると、情報弱者から抜け出すには以下のような段階を経なくてはならない。
1.その分野における基本的な情報の収集。
放射能でいえば、放射性物質について、測定単位について、放射能による大まかな健康被害予測、などがこれにあたる。
これが一番重要なことだが、多くの人はこの段階さえクリアーしない。
2.個別情報の収集
昨日の日記から例をとれば、鼻血の件がこれに当たる。ここでは事例を収集するのも大事だが、同時に注意するべきこともある。大まかに二つある。
2a.反対意見・反証を多面的に検討
一つ目は、それぞれの特殊な情報は、一つの未確定な情報であって、その情報を肯定する意見も否定する意見も出ているということだ。鼻血の例で言えば、これらはネット上ですでに出ている。これは被曝だという医師の最初の意見、それに対する血液内科医の意見、それに再反対する意見。
↓
http://togetter.com/li/150517
http://togetter.com/li/175317
個別の事例に対する専門家の意見、というのは、一つの特殊な情報であって、1のレベル(一般的な知識)の情報ではない。その情報のレベルをつねに意識しながら情報を得よう。
上の二つの意見からでは最終的な結論は出せないと思うかもしれないが、まだその段階ではないのだ。ただここでは、血液内科医が書いている、放射能はガンマ波とベータ派だけ、ということが正しくない(アルファ派もある)、ということに気がつけばよい。これは1の段階(一般的な知識の収集)で多くの情報を得ていれば気がつけることだ。
さて、一つの情報にはさまざな角度があるので、それについても検証するべし。たとえば鼻血の例だと、そもそも鼻血の大量発生など出ていない、という意見がある。
これを検証するのはちょっと面倒だ。ネット上できるのは、「鼻血」というキーワードがある時期からどれだけ頻繁に使用されるのようになったか、というくらいことだ。もちろん、実際の患者数などの裏付けがとれればベター。
2b.類似事例を探す
この段階でするべきことの二つ目として、違うソースに当たる、というのがある。関東での鼻血、という事例に類似する事例を探せばよい。たとえば、チェルノブイリの子供たちはどうなっているのか、など。
ある事例から結論を導くまでには、一つのソースでは足りない。すでに見たように、一つのソースに対しては、それがどのくらい説得力があるかは別にして、反論も反証もでている。それらに対して反論できるかもしれないが、決定的な証拠というのは一つのソースからは出てこない。最低でも三つのソースの裏付けが3に至るためには必要だ。
ただしそれは他人を説得する場合のことだ。自分一人の行動を決定するには二つのソースで十分だろう。
3.判断
1.の段階でえた知識をもとに2.でえた特殊な情報(個々の事例)について判断するのがこの段階。どういう判断がもっとも確からしいのか、という判断を決定する要因は、経験である。
過去に自分が調べ判断した事例というのがあるはずだ。そして、運がよければその判断の可否もすでに知っているかもしれない。そうした経験をもとに、2の情報についての最終判断を下すことになる。過去に正しい判断を多くしてきた人間の判断は経験によりより確からしくなっていくだろうが、そうでない人間の判断はそうではない。
というわけで、1.2.3.のそれぞれの段階において必要な作業と能力は異なる。それらさまざまな過程の総合として一つの判断はある。一人の専門家の意見なんかが絶対に正しいと言えないのは、たとえ1.のある分野についての比較的正確な知識があってもそれを2.に応用できなかったりするからだし、ましてや3の判断へと導く経験数が不足しているからであったりもする。
ある判断について責任をもつのも、その結果を受け取るのも自分だ。
ところで、情報にはいま自分が知らないが大切な情報というのもある。たとえばぼくは最近まで、タンパク質を摂取しないと疲労感を抱く、という栄養学的知識を知らなかった。この程度のことなら、いままで生きてきて普通に耳に入ってきていてもよさそうなものだが、そうではなかった。こういう、欠けている知識を意識して手に入れる、というのが実は一番難しい。当たり前だが。
欠けた知識のない人間というのは決して存在し得ないので、欠けている知識がある、というのは悪いことではない。しかし、それが実生活に直結する知識である場合、それは悪いことだ。これを解決するには次の二つのマインドを持つしかない。
1.日々いろんなことに疑問を持ち、
2.なにか不都合なことや問題があればそれを解決していこうとする意思を持つこと
調べれば情報はある。あとはやる気だ。
日々多様な情報がいきかう現代社会では、情報はつねに断片的に提供され、大きな見取り図を持つことが難しい。テレビではなく、新聞、本などにあたることでそれが解決されるかもしれない。だが、対立する様々な情報が飛び交う中、それの真偽を見極めることはますます難しくなっている。
情報は最終的には、自分の行動を導くための判断へと集約される。そして情報には、1.基本的かつ一般的な知識、2.特殊な知識、3.直接行動を促す結論、大まかに分けてこの三つがある。
栄養学で言えば、1は栄養学上の言葉や概念、2はたとえば、炭水化物だけで生きている人の話、3は「よってタンパク質は生存には必要ではない」あるいは「炭水化物だけで生きるのは特殊な人」というような判断。3の情報をもとに日々の行動が決定されていく。
これを踏まえると、情報弱者から抜け出すには以下のような段階を経なくてはならない。
1.その分野における基本的な情報の収集。
放射能でいえば、放射性物質について、測定単位について、放射能による大まかな健康被害予測、などがこれにあたる。
これが一番重要なことだが、多くの人はこの段階さえクリアーしない。
2.個別情報の収集
昨日の日記から例をとれば、鼻血の件がこれに当たる。ここでは事例を収集するのも大事だが、同時に注意するべきこともある。大まかに二つある。
2a.反対意見・反証を多面的に検討
一つ目は、それぞれの特殊な情報は、一つの未確定な情報であって、その情報を肯定する意見も否定する意見も出ているということだ。鼻血の例で言えば、これらはネット上ですでに出ている。これは被曝だという医師の最初の意見、それに対する血液内科医の意見、それに再反対する意見。
↓
http://togetter.com/li/150517
http://togetter.com/li/175317
個別の事例に対する専門家の意見、というのは、一つの特殊な情報であって、1のレベル(一般的な知識)の情報ではない。その情報のレベルをつねに意識しながら情報を得よう。
上の二つの意見からでは最終的な結論は出せないと思うかもしれないが、まだその段階ではないのだ。ただここでは、血液内科医が書いている、放射能はガンマ波とベータ派だけ、ということが正しくない(アルファ派もある)、ということに気がつけばよい。これは1の段階(一般的な知識の収集)で多くの情報を得ていれば気がつけることだ。
さて、一つの情報にはさまざな角度があるので、それについても検証するべし。たとえば鼻血の例だと、そもそも鼻血の大量発生など出ていない、という意見がある。
これを検証するのはちょっと面倒だ。ネット上できるのは、「鼻血」というキーワードがある時期からどれだけ頻繁に使用されるのようになったか、というくらいことだ。もちろん、実際の患者数などの裏付けがとれればベター。
2b.類似事例を探す
この段階でするべきことの二つ目として、違うソースに当たる、というのがある。関東での鼻血、という事例に類似する事例を探せばよい。たとえば、チェルノブイリの子供たちはどうなっているのか、など。
チェルノブイリ小児病棟_01 ~5年目の報告~
ある事例から結論を導くまでには、一つのソースでは足りない。すでに見たように、一つのソースに対しては、それがどのくらい説得力があるかは別にして、反論も反証もでている。それらに対して反論できるかもしれないが、決定的な証拠というのは一つのソースからは出てこない。最低でも三つのソースの裏付けが3に至るためには必要だ。
ただしそれは他人を説得する場合のことだ。自分一人の行動を決定するには二つのソースで十分だろう。
3.判断
1.の段階でえた知識をもとに2.でえた特殊な情報(個々の事例)について判断するのがこの段階。どういう判断がもっとも確からしいのか、という判断を決定する要因は、経験である。
過去に自分が調べ判断した事例というのがあるはずだ。そして、運がよければその判断の可否もすでに知っているかもしれない。そうした経験をもとに、2の情報についての最終判断を下すことになる。過去に正しい判断を多くしてきた人間の判断は経験によりより確からしくなっていくだろうが、そうでない人間の判断はそうではない。
というわけで、1.2.3.のそれぞれの段階において必要な作業と能力は異なる。それらさまざまな過程の総合として一つの判断はある。一人の専門家の意見なんかが絶対に正しいと言えないのは、たとえ1.のある分野についての比較的正確な知識があってもそれを2.に応用できなかったりするからだし、ましてや3の判断へと導く経験数が不足しているからであったりもする。
ある判断について責任をもつのも、その結果を受け取るのも自分だ。
ところで、情報にはいま自分が知らないが大切な情報というのもある。たとえばぼくは最近まで、タンパク質を摂取しないと疲労感を抱く、という栄養学的知識を知らなかった。この程度のことなら、いままで生きてきて普通に耳に入ってきていてもよさそうなものだが、そうではなかった。こういう、欠けている知識を意識して手に入れる、というのが実は一番難しい。当たり前だが。
欠けた知識のない人間というのは決して存在し得ないので、欠けている知識がある、というのは悪いことではない。しかし、それが実生活に直結する知識である場合、それは悪いことだ。これを解決するには次の二つのマインドを持つしかない。
1.日々いろんなことに疑問を持ち、
2.なにか不都合なことや問題があればそれを解決していこうとする意思を持つこと
調べれば情報はある。あとはやる気だ。
2012年4月30日月曜日
内部被曝の恐怖
今回は予定を変更して放射線のことについて書きたい
改訂されたセシウム基準値を上回る値がいくつかの野菜から検出された。だがセシウムよりプルトニウムがもっと怖いらしい。
http://sankei.jp.msn.com/science/news/120309/scn12030900590000-n1.htm
上の記事では、福島でプルトニウム241(半減期14年)の「他の同位体プルトニウム239(半減期2万4千年)、240(同6600年)も検出」したと書いてある。が、それがいくらくらいなのかは書いていない。
プルトニウムは、それ自体に害はないが、それが崩壊するときに出すアルファ線が怖い。以下wikiより引用。
で、これを取り込むとどうなるか。以下引用
いま、福島で高校生がどんどん心筋梗塞なんかで死んでいるらしい。が、そういうことは日本では報道できないらしい。放射能被害を追求するジャーナリストは記者クラブからはじかれる。病気を被爆が原因と判断する医者は職を失う。
ドイツで作られたドキュメンタリーが話題になっている。
広瀬隆氏「福島原発事故の真相と放射能汚染の恐怖」
原発による汚染範囲をシミュレートした動画も見たんだけど、どうも見つからない。それでは、東京や神奈川の東側が汚染されているのがわかった。そこではどうなっているか。以下引用。
ところで、日本には原発が「高危険区域に25基、中危険区域に25基、低危険地区に7基」ある。
http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2011/03/post_744.html
これらは活断層の上や海岸の近くにあって、いつ福島のような被害に見舞われてもおかしくない。
すでに関東は汚染された死の地になっている。そしてこれは数千年続く。体に異常を感じる人は逃げ出した方がいい。
残りの原発もすぐに処理し始めないと、日本全体が同じように汚染されるだろう。このままでは、日本全体が百年以内に死の地になる。
改訂されたセシウム基準値を上回る値がいくつかの野菜から検出された。だがセシウムよりプルトニウムがもっと怖いらしい。
http://sankei.jp.msn.com/science/news/120309/scn12030900590000-n1.htm
上の記事では、福島でプルトニウム241(半減期14年)の「他の同位体プルトニウム239(半減期2万4千年)、240(同6600年)も検出」したと書いてある。が、それがいくらくらいなのかは書いていない。
プルトニウムは、それ自体に害はないが、それが崩壊するときに出すアルファ線が怖い。以下wikiより引用。
重い原子核が分裂することであるアルファ崩壊によりアルファ線が放出される。半減期が短いほど高水準の放射性活性が短期間続き、半減期が長いほど低水準の放射性活性が長期間続く
↑http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%B4%A9%E5%A3%8A
で、これを取り込むとどうなるか。以下引用
**************これだけ読んでもあんまり信憑性はないように思えるかもしれないが、次の文章はもっと詳しいことを書いている。
体内にプルトニウムが入ったら、半永久的に肺の中で放射線を出し続けて、血液によって全身へ運ばれて、肝臓、骨、リンパ節などに蓄積されて、体外にはほとんど排出されない。長崎の原爆で「死の灰」を吸い込んで内部被曝した人の中には、60年を過ぎても体内のプルトニウムが放射線を出し続けてた例もある。そして、その人が亡くなったあとも、周囲に放射線を出し続ける。そして、半減期は2万4000年だから、もしも土壌を汚染してたら、そのエリアは完全にアウトだ。あたしたちが生きてる間どころか、遥か未来の彼方まで、人間はその土地で暮らすことはできなくなる。
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2011/03/post-35bf.html
**************
**************
アルファ粒子はプルトニウムを含むか、又はそれに直接接触する組織にのみ影響を与える。二種の効果が重要である:急性及び慢性毒性。被爆率が十分高ければ、組織は中毒の効果が急速に表れて急性放射線中毒にかかる。被爆率が低い場合、累積的な発ガン効果を引き起す。
溶けやすい塩類にして飲み込んでも、胃腸の内容物と固まりやすいので胃腸の器官系に吸収されることはほとんどない。水溶液からは沈殿し、他の材料と溶解しない合成物を作る傾向を持つので、プルトニウムの水の汚染物は自己制限現象になりやすい:
プルトニウム500ミリグラム(7キューリー)を細かくするか、又は溶解しやすい材料として飲み込むと、胃腸の器官系が急性被爆を受けて数日から数週間後に死に至る。
プルトニウム100ミリグラム(1.4キューリー)を肺が閉止する程度の大きさの粒にして吸入すると肺浮腫を起して1から10日のうちに死亡する。
20ミリグラムを吸入すると繊維腫を起して約1ヶ月以内に死亡する。
これらの値より少ない場合は、慢性癌腫の影響が重要になってくる。
プルトニウムが慢性効果を持続するには、体内に引き続いて存在しなければならない。肺分泌閉止に適当な寸法範囲の吸入した不溶解性の粒子(1-3ミクロン)は肺の中に永久に沈殿する(非核兵器の事故による高性能炸薬の爆発はここに示すプルトニウムの病状の20-50%に置き換えることが出来る)。人が曝される最も一般的な化学形態は酸化プルトニウムである。この酸化物は反応燃料として用いられ、金属プルトニウム粒子は急速に酸化する。この酸化物は殆ど水に溶けない。プルトニウムは五つの角砂糖分があれば日本人は全員死ぬらしい、と言われるが、それもあながち嘘ではなさそうだ。
http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/nuclear_plutonium.htm
**************
いま、福島で高校生がどんどん心筋梗塞なんかで死んでいるらしい。が、そういうことは日本では報道できないらしい。放射能被害を追求するジャーナリストは記者クラブからはじかれる。病気を被爆が原因と判断する医者は職を失う。
ドイツで作られたドキュメンタリーが話題になっている。
広瀬隆氏「福島原発事故の真相と放射能汚染の恐怖」
原発による汚染範囲をシミュレートした動画も見たんだけど、どうも見つからない。それでは、東京や神奈川の東側が汚染されているのがわかった。そこではどうなっているか。以下引用。
********************放射線を外からあびるだけではたいしたことないが、放射線物質を取り込んで内部被曝してしまうと、上のような症状が出る。同じく以下引用
このような環境で、母の具合が悪くなるのはとても早かったです。
元々ホットスポットの埼玉の三郷とは目と鼻の先でした。
3月中旬からどろっとした鼻血が毎日、数回、仕事中も出ていたそうです。
(これは去年の11月に実際に避難するまで続きました)
そして3月下旬には止まらないから咳が始まり、
4月に入り40度の熱が2週間続き、医者に見てもらっても単なる気管支炎、インフルエンザという診断でした。
しかし血圧はもう死んでもおかしくない程上がり、その症状が治まると
今度は顔に発疹ができ、また寝られないくらいヒドい咳が出始め、また治り、最終的にはマイコプラズマ肺炎にもなりました。この間、必死で説得し続けて、
こんなにあらゆる症状が出ていてもメディアに洗脳されていたのか、「放射能」が原因だとは考えられなかったようです。
しかし、10月からは全く動けなくなり、
少し堪忍して、肺炎の症状が和らいできた11月に急いでこちらに来ました。
こちらに着いて直ぐに鼻血は止まり、2週間は咳も止まらず具合が悪そうでしたが、それ以来は一度も具合が悪くなっていません。。。
それとは別に母が日本から持って来たスーツケースなどに放射能がくっついて来たのか、
今度は私が熱を出し2週間寝込みました。
しかも下痢が1ヶ月も続き、生理不順になり(殆ど不順になった事がない)子供たちもインフルエンザのようになり、
犬もずっと下痢でした。
他の海外在住の友人の話でも日本からの荷物で突然具合が悪くなったケースがあると言っていました。
http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927
********************
********************大量の被爆をした場合よりも、低濃度の被爆の方が、免疫症状がでて体の異常を感じることが多いらしい。鼻血、慢性的疲労感、下痢といった症状が出ている。
私の子どもですが、3月15日の爆発後、1週間ほど連続して鼻血を出しました。
夏休みは海外に2ヶ月間保養にでましたが、帰国した当日、成田で見たことの無い大量の鼻血をだした。近くに居た人が、ポケットティッシュを差し出してくださるほどの、大量の鼻血。昨年の原発爆発後は、風邪の症状は無いのに食欲不振が長く続き、腹痛を訴えていました。現在は疲れやすく眠気がひどい。めまいも一時期ありました
http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927
********************
ところで、日本には原発が「高危険区域に25基、中危険区域に25基、低危険地区に7基」ある。
http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2011/03/post_744.html
これらは活断層の上や海岸の近くにあって、いつ福島のような被害に見舞われてもおかしくない。
すでに関東は汚染された死の地になっている。そしてこれは数千年続く。体に異常を感じる人は逃げ出した方がいい。
残りの原発もすぐに処理し始めないと、日本全体が同じように汚染されるだろう。このままでは、日本全体が百年以内に死の地になる。
2012年4月29日日曜日
日本における「エロ」の多様さ
日本人はマッカーサーに「日本人の精神年齢は三歳くらいだ」とか言われたことをトラウマに思って、欧米人に劣等感を持ってしまったりするようなのだが、人間の豊かさや成長の度合いを測る基準にはいろいろある。
たとえば、日本人は世界で一番、「エロい」ということについて繊細で多様な感覚を持っている。これは誇りに思っていい。
サウジアラビアという国に入った人のブログをたまたま読んだのだけど、入国するときにハードディスクにあるエロ画像を二時間かけてすべて消されたらしい。
http://www.worldwidehunters.com/archives/51937522.html
あの国では、エロ画像や動画はすべて禁止で、きっとネットでも見れないようになっているに違いない。するとどうなるか。「エロ」にもいろいろある、ということがわからなくなるのである。エロにも、健康的なエロ、絶対領域のエロ、見えそうで見えないパンツのエロさ、などといろいろある。ところが、こうした豊かにエロに触れることのできないまま大人になってしまうと、エロ=セックスになってしまう。
おそらく、一世紀前までは世界のどこでも似たような状況だっただろう。しかし、日本では江戸時代後期に、セックスを描いた春画以外にも、美人画や危絵といった中間ジャンルが育っていた。これこそ、今の日本の繊細なエロの源流である、と思う。
メディアを通じてある特殊な感性が一般化する。日本には、そうした一般化した特殊な感性が多くある。エロもその一つで、これは文化だ。「エロさ」は明らかなポルノ作品にだけあるのではなく、ほぼすべての漫画やアニメにある。ほかにも、大江健三郎のようないかにもまじめな感じの小説家がやけにエロい小説を書いていたりするっていうのは、日本だけではないだろうか。フランスで有名なウェルベックなんかは見た目からしてエロそうだ。まあどうでもいいが。
さまざまな種類のエロさを楽しめる土壌のある日本文化というのは、じつは世界的にみてものすごく貴重なものなのだ。これは、西洋におけるエロ表現を見ればすぐわかる。もっとも、日本の多様なエロさの表現とその分布領域についてまじめな研究をした人はいないだろうし、そんなテーマを思いついた人さえいないだろう。エロというものが取るに足らないものだと思われているのは、文化的な損失だ。さらに言えば、日本のエロといえば、AV女優ばかりが世界的に有名な状況は、日本本来のポテンシャルからして非常に不本意である。
たとえば、日本人は世界で一番、「エロい」ということについて繊細で多様な感覚を持っている。これは誇りに思っていい。
サウジアラビアという国に入った人のブログをたまたま読んだのだけど、入国するときにハードディスクにあるエロ画像を二時間かけてすべて消されたらしい。
http://www.worldwidehunters.com/archives/51937522.html
あの国では、エロ画像や動画はすべて禁止で、きっとネットでも見れないようになっているに違いない。するとどうなるか。「エロ」にもいろいろある、ということがわからなくなるのである。エロにも、健康的なエロ、絶対領域のエロ、見えそうで見えないパンツのエロさ、などといろいろある。ところが、こうした豊かにエロに触れることのできないまま大人になってしまうと、エロ=セックスになってしまう。
おそらく、一世紀前までは世界のどこでも似たような状況だっただろう。しかし、日本では江戸時代後期に、セックスを描いた春画以外にも、美人画や危絵といった中間ジャンルが育っていた。これこそ、今の日本の繊細なエロの源流である、と思う。
メディアを通じてある特殊な感性が一般化する。日本には、そうした一般化した特殊な感性が多くある。エロもその一つで、これは文化だ。「エロさ」は明らかなポルノ作品にだけあるのではなく、ほぼすべての漫画やアニメにある。ほかにも、大江健三郎のようないかにもまじめな感じの小説家がやけにエロい小説を書いていたりするっていうのは、日本だけではないだろうか。フランスで有名なウェルベックなんかは見た目からしてエロそうだ。まあどうでもいいが。
さまざまな種類のエロさを楽しめる土壌のある日本文化というのは、じつは世界的にみてものすごく貴重なものなのだ。これは、西洋におけるエロ表現を見ればすぐわかる。もっとも、日本の多様なエロさの表現とその分布領域についてまじめな研究をした人はいないだろうし、そんなテーマを思いついた人さえいないだろう。エロというものが取るに足らないものだと思われているのは、文化的な損失だ。さらに言えば、日本のエロといえば、AV女優ばかりが世界的に有名な状況は、日本本来のポテンシャルからして非常に不本意である。
2012年4月26日木曜日
「人間開発指数」のウソ
人間開発指数というのがある。その国の、人々の生活の質や発展度合いを示す指標である、らしい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E9%96%8B%E7%99%BA%E6%8C%87%E6%95%B0
この数値は平均余命指数と教育指数、そしてGDP指数から計算される。教育指数のなかには成人識字指数 (ALI) と総就学指数 (GEI)という小項目がある。2011年の一位を見てみると、 ノルェーになっている。日本は12位。オーストラリアが二位。
これを見て「日本はまだまだトップじゃないのか」と思う人はまんまとだまされている。日本が世界で一位でないはずがない。こういうのは、「一人あたりのGDP」なんかと同じく、うそをつく数字によって作られた指標だ。
平均余命と教育、そしてGDP、この三つが一番高いのはどう考えても世界で日本が一番なはずなのに、なぜ12位なのか、わけがわからん。ノルウェーはどうかだ知らないが、オーストラリアが二位とか笑えるとしか言いようがない。あの国はテレビで頭のいい中学生が出て、8*5は45?とかやっている国だ。
そもそも、日本人は日本のことも西洋のこともよく知っている。グリム童話も猿蟹合戦も知っている。ルイ14世も織田信長も知っている。これがフランス人になると、グリムは知っているかもしれんが、日本の話なんて知るわけないし、学校ではフランス史しか教えないので、ほとんどのフランス人が世界の歴史に無知だ。
たとえば、日本とアメリカが戦争したっていうのはかろうじて知っているが、「どこで?」かは知らない。日本とロシア、中国とイギリスが戦争したとかになるとまあ知らない。そんなんで恥ずかしくないのだろうかとぼくは思うのだけど、フランス的にはフランスのことを知っていればOKなのである。日本の国粋主義者も真っ青だ。九九も怪しくて、7*5とかを30って答えちゃう。暗算できる人はまずいない。
一番びっくりしたのが、イスラム教もキリスト教も同じ神だってことを知らなかったってこと。こんなことも学校で教えないらしい。後発の宗教を信じているからアラブ人は知っているかと思うと、フランスにいるアラブ人は知らないっぽい。おいおい自分たちの宗教について何も知らないのか、と不安になる。日本の国粋主義者も真っ青である。
基本的な教養水準において、日本人にかなう国民はいない、というのは外国に住む日本人だれもが感じることではないだろーか。もちろんこれは、文化的な水準も高いってことだ。ぼくは日本で育って日本のアニメや海外のアニメ、日本の音楽や海外の音楽、日本の小説や海外の小説、日本の言論や海外の思想なんかに自然と触れて育ってこれたけれど、これがフランスにいたとすると、フランス以外のものはなんにも知らずに終わったのではないだろうか、という気がする。
よく、ちょっとした金持ち層にありがちな話として、子供が生まれたらシンガポールあたりで高度な英語教育を受けさせたい、とか考えている親がいる。しかし、それはやめたほうがいいとぼくは思う。たとえ英語教育がおそまつでも、日本に住んでいれば、日常的に触れられる情報の量と質、自分で調べて簡単に手に入る情報の量と質が圧倒的に豊かで、それは何ものにもかえがたい。一つの例だけど、日本のあの無数の漫画雑誌がまったくない国で子供時代を過ごす子供と、それがない国で過ごす子供とどっちが文化的に豊かになるだろうか。もし子供時代にジャンプが買えていなかったらと思うとぼくなんかはぞっとする。まあでも国粋主義者ではないんだけど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E9%96%8B%E7%99%BA%E6%8C%87%E6%95%B0
この数値は平均余命指数と教育指数、そしてGDP指数から計算される。教育指数のなかには成人識字指数 (ALI) と総就学指数 (GEI)という小項目がある。2011年の一位を見てみると、 ノルェーになっている。日本は12位。オーストラリアが二位。
これを見て「日本はまだまだトップじゃないのか」と思う人はまんまとだまされている。日本が世界で一位でないはずがない。こういうのは、「一人あたりのGDP」なんかと同じく、うそをつく数字によって作られた指標だ。
平均余命と教育、そしてGDP、この三つが一番高いのはどう考えても世界で日本が一番なはずなのに、なぜ12位なのか、わけがわからん。ノルウェーはどうかだ知らないが、オーストラリアが二位とか笑えるとしか言いようがない。あの国はテレビで頭のいい中学生が出て、8*5は45?とかやっている国だ。
そもそも、日本人は日本のことも西洋のこともよく知っている。グリム童話も猿蟹合戦も知っている。ルイ14世も織田信長も知っている。これがフランス人になると、グリムは知っているかもしれんが、日本の話なんて知るわけないし、学校ではフランス史しか教えないので、ほとんどのフランス人が世界の歴史に無知だ。
たとえば、日本とアメリカが戦争したっていうのはかろうじて知っているが、「どこで?」かは知らない。日本とロシア、中国とイギリスが戦争したとかになるとまあ知らない。そんなんで恥ずかしくないのだろうかとぼくは思うのだけど、フランス的にはフランスのことを知っていればOKなのである。日本の国粋主義者も真っ青だ。九九も怪しくて、7*5とかを30って答えちゃう。暗算できる人はまずいない。
一番びっくりしたのが、イスラム教もキリスト教も同じ神だってことを知らなかったってこと。こんなことも学校で教えないらしい。後発の宗教を信じているからアラブ人は知っているかと思うと、フランスにいるアラブ人は知らないっぽい。おいおい自分たちの宗教について何も知らないのか、と不安になる。日本の国粋主義者も真っ青である。
基本的な教養水準において、日本人にかなう国民はいない、というのは外国に住む日本人だれもが感じることではないだろーか。もちろんこれは、文化的な水準も高いってことだ。ぼくは日本で育って日本のアニメや海外のアニメ、日本の音楽や海外の音楽、日本の小説や海外の小説、日本の言論や海外の思想なんかに自然と触れて育ってこれたけれど、これがフランスにいたとすると、フランス以外のものはなんにも知らずに終わったのではないだろうか、という気がする。
よく、ちょっとした金持ち層にありがちな話として、子供が生まれたらシンガポールあたりで高度な英語教育を受けさせたい、とか考えている親がいる。しかし、それはやめたほうがいいとぼくは思う。たとえ英語教育がおそまつでも、日本に住んでいれば、日常的に触れられる情報の量と質、自分で調べて簡単に手に入る情報の量と質が圧倒的に豊かで、それは何ものにもかえがたい。一つの例だけど、日本のあの無数の漫画雑誌がまったくない国で子供時代を過ごす子供と、それがない国で過ごす子供とどっちが文化的に豊かになるだろうか。もし子供時代にジャンプが買えていなかったらと思うとぼくなんかはぞっとする。まあでも国粋主義者ではないんだけど。
2012年4月19日木曜日
イエローストーンのオオカミ
イエローストーン国立公園にいったん絶滅した狼が再導入されたのが1995年。2007年にネイチャーとBob Landis監督によって、その狼たちを撮影したドキュメンタリーが作られていて、これがいい。
なにがいいかって、とにかくオオカミがかっこよい。ドルイドと呼ばれるこいつらの面構えには、強靱な精神が感じ取られる。それはまさに開拓者のそれだ。こんな美しい生き物がほかにいるだろうか?
オオカミといえばシートンの描いた「ロボ」がいるけれど、あれは普通の人間よりはるかに頭がいいオオカミの話だった。頭だけでなくて、ぼくは精神においても、野生の狼は普通の人間よりはるかに強いと思う。
それはとにかく、なぜオオカミがイエローストーンに再導入されたか。詳しくはwikiに書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%81%AE%E5%86%8D%E5%B0%8E%E5%85%A5
要するに、生態系の頂点にいたオオカミがいなくなったことで、ウルク、つまりでっかい鹿が増えすぎてしまったから、というもの。ウルクのおかげで特定の木も減るし、植生が貧しくなる。オオカミの代わりに増えたコヨーテなんかのおかげで、なんだかわかんないけどビーバーなんかも減ってしまったとのこと。
これがオオカミのおかげで回復してきている、というのが大勢の研究者の見解だそうだ。
『日本の森にオオカミの群れを放て』という本も出ているけれど、日本でも同じことをしようと言っている人がいる。
http://www.athome-academy.jp/archive/environment/0000001016_all.html
んが、アメリカでは導入までに20年かけている。詳しくは以下を参照。
*****************
合衆国政府は、妥協案の作成・条件整備・実行について責任を負い、妥協点を探し出すのに約20年間をかけて努力を続けた。1974年にオオカミ回復チームが任命され、1982年には意見を集めるために最初の公式の回復計画(Recovery Plan)を公表した。オオカミ再導入に対する一般的な不安があったため、州政府および地方政府の判断を加えやすくするように、魚類野生生物局は計画を変更した。そのようにして、意見を集めるための2番目の回復計画が1985年に公表された。同じ年に行われたイエローストーン国立公園の訪問者へのアンケートでは、74%の人がオオカミが公園の改善に必要かもしれないと回答し、60%の人が再導入に賛成した。再導入に承認を与える前の最終段階として、実施した場合の影響の事前評価(環境アセスメント)があった。連邦議会は、環境アセスメントへの支出をする前に更に研究が必要であるとして、計画を差し止めた。
1987年に牧場主たちは、再導入提案者に経済的負担に対する補償を要求した。それに対してDefenders of Wildlife(アメリカ合衆国の自然保護団体)は、オオカミによる被害で失われる家畜の市場価格を牧場主たちに補償するために、「オオカミ補償基金」を準備した。その同じ年、最終的な回復計画が発表された。その後、研究・公的な教育・意見募集を行い、公開検討を加えるために1993年に環境影響評価書(環境アセスメントの結果報告書:Environmental Impact Statement)の草稿が発表された。この環境影響評価書には15万以上の意見が寄せられ、1994年5月に成立した。
******************
なんだかんだ言ってもアメリカはすごい国だ。オオカミの再導入とかほんとに効果があるのかどうかまったく証明されていないことを、20年もかけて実施しようという情熱を持った人と、それを支える組織の一貫性が20年間もあったのか・・・・
こいつらだね。
http://www.defenders.org/
スコットランドでもオオカミを導入しようという話があるらしい。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/6310211.stm
まあとにかく、世界中でオオカミがよみがえっていくのは喜ばしいことだ。
なにがいいかって、とにかくオオカミがかっこよい。ドルイドと呼ばれるこいつらの面構えには、強靱な精神が感じ取られる。それはまさに開拓者のそれだ。こんな美しい生き物がほかにいるだろうか?
オオカミといえばシートンの描いた「ロボ」がいるけれど、あれは普通の人間よりはるかに頭がいいオオカミの話だった。頭だけでなくて、ぼくは精神においても、野生の狼は普通の人間よりはるかに強いと思う。
それはとにかく、なぜオオカミがイエローストーンに再導入されたか。詳しくはwikiに書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%81%AE%E5%86%8D%E5%B0%8E%E5%85%A5
要するに、生態系の頂点にいたオオカミがいなくなったことで、ウルク、つまりでっかい鹿が増えすぎてしまったから、というもの。ウルクのおかげで特定の木も減るし、植生が貧しくなる。オオカミの代わりに増えたコヨーテなんかのおかげで、なんだかわかんないけどビーバーなんかも減ってしまったとのこと。
これがオオカミのおかげで回復してきている、というのが大勢の研究者の見解だそうだ。
『日本の森にオオカミの群れを放て』という本も出ているけれど、日本でも同じことをしようと言っている人がいる。
http://www.athome-academy.jp/archive/environment/0000001016_all.html
んが、アメリカでは導入までに20年かけている。詳しくは以下を参照。
*****************
合衆国政府は、妥協案の作成・条件整備・実行について責任を負い、妥協点を探し出すのに約20年間をかけて努力を続けた。1974年にオオカミ回復チームが任命され、1982年には意見を集めるために最初の公式の回復計画(Recovery Plan)を公表した。オオカミ再導入に対する一般的な不安があったため、州政府および地方政府の判断を加えやすくするように、魚類野生生物局は計画を変更した。そのようにして、意見を集めるための2番目の回復計画が1985年に公表された。同じ年に行われたイエローストーン国立公園の訪問者へのアンケートでは、74%の人がオオカミが公園の改善に必要かもしれないと回答し、60%の人が再導入に賛成した。再導入に承認を与える前の最終段階として、実施した場合の影響の事前評価(環境アセスメント)があった。連邦議会は、環境アセスメントへの支出をする前に更に研究が必要であるとして、計画を差し止めた。
1987年に牧場主たちは、再導入提案者に経済的負担に対する補償を要求した。それに対してDefenders of Wildlife(アメリカ合衆国の自然保護団体)は、オオカミによる被害で失われる家畜の市場価格を牧場主たちに補償するために、「オオカミ補償基金」を準備した。その同じ年、最終的な回復計画が発表された。その後、研究・公的な教育・意見募集を行い、公開検討を加えるために1993年に環境影響評価書(環境アセスメントの結果報告書:Environmental Impact Statement)の草稿が発表された。この環境影響評価書には15万以上の意見が寄せられ、1994年5月に成立した。
******************
なんだかんだ言ってもアメリカはすごい国だ。オオカミの再導入とかほんとに効果があるのかどうかまったく証明されていないことを、20年もかけて実施しようという情熱を持った人と、それを支える組織の一貫性が20年間もあったのか・・・・
こいつらだね。
http://www.defenders.org/
スコットランドでもオオカミを導入しようという話があるらしい。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/6310211.stm
まあとにかく、世界中でオオカミがよみがえっていくのは喜ばしいことだ。
2012年4月13日金曜日
日本症候群研究(上)
私たちはここ数年、日本症候群の多種多様な形態や症状について、その誘因を探求してきた。ここに報告するのは、その研究の一部である。この報告についても、医師の守秘義務による制限は受けており、ゆえに報告できるのは一部の症例のある部分のみである。それでも、私たちはこの報告が将来の研究の進展に寄与する関心を呼び起こすことを願って、この貧しい成果を公に問うものである。
症例1.ドーロ
ドーロは発症時六歳。私がこの患者を看たのは彼女が19歳の時である。彼女が育った家族には幾人か精神病者がおり、彼女もその遺伝的負荷を受け継いでいるようだ。彼女自身は以前より健康で、よい家庭に育ち、飲酒も薬物摂取の経験もほとんどない。
社交的な生活としては、友人と週末にダンスをしに出かける、というくらいで、恋人はいなかった。最近モルモン教に改宗したという彼女は、フランス人の男たちは結婚前に性交渉を望む変態だ、と声をわななかせたあと、罵り散らし、人々に枕を投げつけ、掛け布団や下着のボタンを引きちぎるなどした。
催眠療法によって落ち着かせた後、じゃあどういう相手となら結婚できるのか、と問うと、彼女は白い袴を着た日本人と結婚するという。日本にはモルモン教徒が多いので、婚前交渉に関しては心配していないらしい。
症例2 ミス・パーシー
ミス・パーシーの発症時は不明。彼女が20歳のときに彼女は私のクリニックを訪れた。話を聞くと、社会的な面での人生は順調であり、とくに日本人に対する極端な興味も見せなかった。ところが動物園の話になると、
「身動きなさらないで、どうすればいいのでしょう! 私にお触れにならないで! もしネズミや蛇がそのへんを歩いていたら、どうすればいいのでしょう!」と恐慌状態に陥った。
私が催眠状態において日本の動物園ではそんなことはない、と教えると、涙を一時間ほど長し続けあと、この症状は除去された。
症例3 マリー・フォン・O
マリー・フォン・Oを私が看たときに彼女は16歳だった。日本のあるアニメを見ていた5歳のときに発症したらしい。私の不注意のせいで、このアニメの名前をメモするのを忘れてしまい、それがなんだったのかはわからないままだ。
ある日彼女の腰が痛むというので診察に行くと、
「先生明後日からバカンスなんですが、明日は体育授業があるんです。この寒い中。外で走らないといけないんです。ちょっと熱があって体がだるいので、やりたくないんです。明日、ベッドの中で学校に行く前に、重病じゃないけど学校に行けないくらいの病気を演じてみようかしら。『お母さん、とっても熱があるの。今日は学校を休ませてちょうだい』って。でも私よい女優じゃないから、どうすればいいでしょう。」
というので、
「バスのなかに体操着を忘れてごらんなさい。バスは何時にいつも乗るのだね」
と聞くと上の空で聞いておらず、熱に浮かれた調子で
「でも、もう私あらゆる手段を使い尽くしたんです。『昨日よく眠れなくて朝なんにも食べていないんです』『今日は頭がなんだか痛いんです』『先生お・ね・が・い・・・』」
そこで、フランスでは水泳の授業はあるのか、と訪ねると、とくに季節に関係なく近くの公営の温水プールの一部を借りてやっているようだ。主にそれは水曜日の午前中のようである。
症例1.ドーロ
ドーロは発症時六歳。私がこの患者を看たのは彼女が19歳の時である。彼女が育った家族には幾人か精神病者がおり、彼女もその遺伝的負荷を受け継いでいるようだ。彼女自身は以前より健康で、よい家庭に育ち、飲酒も薬物摂取の経験もほとんどない。
社交的な生活としては、友人と週末にダンスをしに出かける、というくらいで、恋人はいなかった。最近モルモン教に改宗したという彼女は、フランス人の男たちは結婚前に性交渉を望む変態だ、と声をわななかせたあと、罵り散らし、人々に枕を投げつけ、掛け布団や下着のボタンを引きちぎるなどした。
催眠療法によって落ち着かせた後、じゃあどういう相手となら結婚できるのか、と問うと、彼女は白い袴を着た日本人と結婚するという。日本にはモルモン教徒が多いので、婚前交渉に関しては心配していないらしい。
症例2 ミス・パーシー
ミス・パーシーの発症時は不明。彼女が20歳のときに彼女は私のクリニックを訪れた。話を聞くと、社会的な面での人生は順調であり、とくに日本人に対する極端な興味も見せなかった。ところが動物園の話になると、
「身動きなさらないで、どうすればいいのでしょう! 私にお触れにならないで! もしネズミや蛇がそのへんを歩いていたら、どうすればいいのでしょう!」と恐慌状態に陥った。
私が催眠状態において日本の動物園ではそんなことはない、と教えると、涙を一時間ほど長し続けあと、この症状は除去された。
症例3 マリー・フォン・O
マリー・フォン・Oを私が看たときに彼女は16歳だった。日本のあるアニメを見ていた5歳のときに発症したらしい。私の不注意のせいで、このアニメの名前をメモするのを忘れてしまい、それがなんだったのかはわからないままだ。
ある日彼女の腰が痛むというので診察に行くと、
「先生明後日からバカンスなんですが、明日は体育授業があるんです。この寒い中。外で走らないといけないんです。ちょっと熱があって体がだるいので、やりたくないんです。明日、ベッドの中で学校に行く前に、重病じゃないけど学校に行けないくらいの病気を演じてみようかしら。『お母さん、とっても熱があるの。今日は学校を休ませてちょうだい』って。でも私よい女優じゃないから、どうすればいいでしょう。」
というので、
「バスのなかに体操着を忘れてごらんなさい。バスは何時にいつも乗るのだね」
と聞くと上の空で聞いておらず、熱に浮かれた調子で
「でも、もう私あらゆる手段を使い尽くしたんです。『昨日よく眠れなくて朝なんにも食べていないんです』『今日は頭がなんだか痛いんです』『先生お・ね・が・い・・・』」
そこで、フランスでは水泳の授業はあるのか、と訪ねると、とくに季節に関係なく近くの公営の温水プールの一部を借りてやっているようだ。主にそれは水曜日の午前中のようである。
2012年4月12日木曜日
日本の職業音楽家三人
ぼくが子供の頃から聞いている日本の職業音楽家がいる。
なかでも、菅野よう子は世界的に、というか日本好きの人間の間で圧倒的に知られている。そんな彼女の傑作はこれだろう。
テクノだけど民族的な味わい。これは聞いたことのない音楽だった。
wikiを読むと、彼女についてこう書いてある。
************************
クラブミュージックに見られる繰り返しの多いミニマルな展開やキックの4つ打ちもあまり好きではなく、「Cowboy Bebop remixes music for freelance」のリミキサーの選定をしていた渡辺信一郎や佐藤大に対して「これは音楽じゃない」「マシンが鳴っているだけで気持ち悪い」等と言い、二人から大量のクラブミュージックのレコードを聞かされたという逸話がある。
************************
面白い。渡辺信一郎、佐藤大、グッジョブです。
彼女の生映像もある。
東野美紀もゲーム音楽からはじめた人。なんとコナミで『グラディウス』の作曲をしたときにはまだ学生で、バイトだったとのこと。そんな若い人がファミコン創世記を支えていたのか、と今になって知る。
なんと耳に心地よい音楽であることか。
ちなみに、コナミでは作曲家が集まってコナミ矩形波倶楽部というバンドを作っていたんだけど、そのアルバムなんかを聞いても案外普通なんだよね。そういうバンド音楽より、当時のしょぼい音源で作られた8ビット音楽のほうが先端だった気がする。
ところで、彼女のインタビューが面白い
http://www.gpara.com/contents/creator/bn_257.php
************************
今、個人的に興味があるのは子供の観察です(笑)。娘がまだ1歳のころ、私が友人とひとしきり電話したのち、彼女は携帯を持って「ペチャペチャ ペチャプ~。バ~イ♪」と言って私を真似たんです。よく「ぺちゃくちゃ喋る」といいますが、言葉が確立されていない赤ちゃんの耳には、大人のお喋りは「ぺちゃぺちゃ」と聞こえているようです。ささいな事ですが、感動しませんか? これはほんの一例です。神秘的な事件は日々起きています。
************************
この話聞くだけで彼女が魅力的な人だってのがよく伝わってくる。
ちなみに、イーアルカンフーも彼女の作品だ。
加古隆は職業音楽家ではないだろうけれど、多くの映像音楽を作っているのでここに挙げたい。まずは何よりも『映像の世紀』のテーマ曲
いろんなテレビ番組をみてきたけれど、これが一番だった。その栄光ある番組を見事に飾った音楽だった。加古隆はほかにこんなのも作っている。
なかでも、菅野よう子は世界的に、というか日本好きの人間の間で圧倒的に知られている。そんな彼女の傑作はこれだろう。
テクノだけど民族的な味わい。これは聞いたことのない音楽だった。
wikiを読むと、彼女についてこう書いてある。
************************
クラブミュージックに見られる繰り返しの多いミニマルな展開やキックの4つ打ちもあまり好きではなく、「Cowboy Bebop remixes music for freelance」のリミキサーの選定をしていた渡辺信一郎や佐藤大に対して「これは音楽じゃない」「マシンが鳴っているだけで気持ち悪い」等と言い、二人から大量のクラブミュージックのレコードを聞かされたという逸話がある。
************************
面白い。渡辺信一郎、佐藤大、グッジョブです。
彼女の生映像もある。
東野美紀もゲーム音楽からはじめた人。なんとコナミで『グラディウス』の作曲をしたときにはまだ学生で、バイトだったとのこと。そんな若い人がファミコン創世記を支えていたのか、と今になって知る。
ちなみに、コナミでは作曲家が集まってコナミ矩形波倶楽部というバンドを作っていたんだけど、そのアルバムなんかを聞いても案外普通なんだよね。そういうバンド音楽より、当時のしょぼい音源で作られた8ビット音楽のほうが先端だった気がする。
ところで、彼女のインタビューが面白い
http://www.gpara.com/contents/creator/bn_257.php
************************
今、個人的に興味があるのは子供の観察です(笑)。娘がまだ1歳のころ、私が友人とひとしきり電話したのち、彼女は携帯を持って「ペチャペチャ ペチャプ~。バ~イ♪」と言って私を真似たんです。よく「ぺちゃくちゃ喋る」といいますが、言葉が確立されていない赤ちゃんの耳には、大人のお喋りは「ぺちゃぺちゃ」と聞こえているようです。ささいな事ですが、感動しませんか? これはほんの一例です。神秘的な事件は日々起きています。
************************
この話聞くだけで彼女が魅力的な人だってのがよく伝わってくる。
ちなみに、イーアルカンフーも彼女の作品だ。
加古隆は職業音楽家ではないだろうけれど、多くの映像音楽を作っているのでここに挙げたい。まずは何よりも『映像の世紀』のテーマ曲
いろんなテレビ番組をみてきたけれど、これが一番だった。その栄光ある番組を見事に飾った音楽だった。加古隆はほかにこんなのも作っている。
2012年4月10日火曜日
日本語キーボードをフランス語化する方法
フランス語にはアクサンとかがあって、日本語のキーボードでは打ちづらい。
フランス語入力方法の詳しい方法は下のHPで書かれている。
http://citron.maxs.jp/memo/fmemoxp.html
驚いたのは次の方法
>「é」を入力するには[Alt]キーを押した状態で
>その右横の「0233」とテンキーを使って入力し、[Alt]キーを離します。
これはしらなんだ。0232がèなので、0233と0232さえ覚えておけば、わざわざフランス語入力にしなくてもだいたい大丈夫だ。
でも、本格的にうつにはこれでは面倒なので、やはりフランス語キーボードを使うしかない。
でも、フランス語キーボードは日本語入力のオン・オフボタンがないので個人的には使いづらいと思っていた(キー割りあての変更もうまくできない)。ほかには、アットマークの配列とかが違う。コマンドに使う記号の配列なんかも全然違う。
これを解決するには、キーボードに違う言語のステッカーを貼っちまえばいいのだ。
これはフランス語の。
http://goo.gl/mmMyx
日本語のもある。
http://goo.gl/VbHH0
せっかくだからREALFORCE とかの日本製高級キーボードを買っちゃって、フランス語用キーボードのステッカーを上に貼っちゃえば、普通に使えるわけだ。
フランス語入力方法の詳しい方法は下のHPで書かれている。
http://citron.maxs.jp/memo/fmemoxp.html
驚いたのは次の方法
>「é」を入力するには[Alt]キーを押した状態で
>その右横の「0233」とテンキーを使って入力し、[Alt]キーを離します。
これはしらなんだ。0232がèなので、0233と0232さえ覚えておけば、わざわざフランス語入力にしなくてもだいたい大丈夫だ。
でも、本格的にうつにはこれでは面倒なので、やはりフランス語キーボードを使うしかない。
でも、フランス語キーボードは日本語入力のオン・オフボタンがないので個人的には使いづらいと思っていた(キー割りあての変更もうまくできない)。ほかには、アットマークの配列とかが違う。コマンドに使う記号の配列なんかも全然違う。
これを解決するには、キーボードに違う言語のステッカーを貼っちまえばいいのだ。
これはフランス語の。
http://goo.gl/mmMyx
日本語のもある。
http://goo.gl/VbHH0
せっかくだからREALFORCE とかの日本製高級キーボードを買っちゃって、フランス語用キーボードのステッカーを上に貼っちゃえば、普通に使えるわけだ。
2012年4月8日日曜日
十進法と二進法の発明
十進法ってのは、人間の指が十本あったから思いつかれたものらしい。という説明を聞いてなるほど、というよりかは、本当か?と思った。
だったら、十二進法とかはどうやって思いつかれたというのか?
と思っていたら、次のような説明を見て、腑に落ちた。
**************************
十進法を世界で最初に考え出し、その使用を提唱したのはベルギーの商人シモン・ステヴィン(1548~1620年)です。
ステヴィンは、当代きっての軍事的天才、オラ二エ公ナッサウのマウリッツ(1567~1625年)のお抱え教師で『築城術』(1594年)を著わしたり、コペルニクスを(ガリレオに先んじて)支持する立場の本を著わした(1608年)ほか、遠近法の論文、力学の手引書、航海術の教科書、経緯測定法の教科書、船の位置を常に把握するための斜航線操舵法の改良案、さらに、『平均律』音階を利用した音楽調律理論の本、力の平行四辺形に関する独自の理論を応用した機械仕掛けの焼肉用鉄串の設計図を作ったり、等々天才と呼ぶに相応しい人だったのです。
1785年にジェームズ・マディスンは『それぞれが、違う言語で話すという不便さに次ぐものは、便宜から作られた異なる度量衡を使う不便さだ』と述べていることからも分かるように、科学者が、お互いの実験を確かめるのに役立つ国際語としての数学用語には、数を最小単位に分割し、それを表す簡単な方法が昔から必要とされていました。
ステヴィンの発明はあまりにも単純で、そんな発明が必要だったとは信じがたいほどのものだったのです。プランタンがライデンで出版した36ページの小冊子『十分の一』(1585年)の中でステヴィンは、十進法を提唱しています。1608年に出た英語版で『十進(デシマル)』という言葉が初めて英語に導入されました。
それまでの分数の取り扱いは厄介だったのです。ステヴィンの解決法は、分数の単位を全部整数として扱うというものでした。例えば、4と100分の29という数字があるとします。これを簡単に100分の1という数字が429個あるものとすると考えてはどうかとステヴィンは言ったのです。与えられた数字を一度その最小単位に還元して、整数も分数も、その単位の倍数として扱う。実験するものは、今や、全ての数をまとめて処理できるようになりました。
日常生活の面では、商人と客のもめごとや、銀行家と借り手の問題をいかに簡単なものにするかをステヴィンは示しました。ステヴィンは『小数』を用いることが、測量にも、布地や葡萄樽を計るときにも、天文学者や貨幣鋳造者の仕事にも利点となることを示しました。そして、兵士を10人、100人、1000人といった単位にわけることの利を説きました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1486284.html
**************************
ここで書かれていることは、十進法の確立、というよりは「小数における十進法の導入」の問題である。そして、小数において十進法が導入されたのはヨーロッパが最初ではなく、むしろ遅れていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%95%B0
ただステヴィンの解決法は、小数の位に桁の名前を必要としないものなので、これで一気に西洋数学は中国圏より先に進むことになった・・・んだと思う。きっと。
なにかを数えるときに、場合場合により十進法だったり十二進法だったり二十進法だったり、というのは、とくに人間の指とか関節が起源でなくてもありえることだと思う。
http://www2m.biglobe.ne.jp/%257Em-souda/mysouda/math/smith/chapter1/math21.htm
問題は、それを数える原理として徹底できるか、というところにある。そういう意味では、やはりステヴィンの解決法は画期的だったわけだ。これが17世紀初頭。
英語でBinaryという二進法の発想は、やはり 17世紀初頭にF・ベーコンによって提唱されている。
******************************
1605年、フランシス・ベーコンはアルファベットの文字を二進数字の並びで表す体系を論じ、任意の無作為なテキストで微かに判別可能なフォントの変化に符号化できるとした。二進符号化の一般理論として彼が指摘した重要な点は、同じ方法をあらゆる物に適用できるという点であり、「2種類の異なる状態をそれらの物で表現できればよく、鐘、トランペット、光、松明、マスケット銃など同様の性質があればどんなものでもよい」とした。これをベーコンの暗号と呼ぶ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%80%B2%E6%B3%95
******************************
『学問の進歩』か・・・。この考え方は、面白いし、現代的だ。Dictionary of the History of Ideasで昔読んだことがあるけれど、古代から数字が万物に割りふられている、という考えがあったらしい。
http://xtf.lib.virginia.edu/xtf/view?docId=DicHist/uvaBook/tei/DicHist3.xml;chunk.id=dv3-50;toc.depth=1;toc.id=dv3-50;brand=default
でもベーコンのこの考えは、もの自体に数が割り振られているのではなくて、ものの状態、つまり、ONであるかOFFであるか、とかに1と2の数字が割りふられうる、というもの。これはとっても近代的な考え方だ。
ライプニッツが二進法を考えたのは、こういう思想的流れのなかにある。
******************************
数学的に二進法を確立したのは17世紀のゴットフリート・ライプニッツで、"Explication de l'Arithmétique Binaire" という論文も発表している。ライプニッツは現代の二進法と同じく、1 と 0 を使って二進法を表した。ライプニッツはシノファイル(親中家)でもあり、後に「易経」を知って、その六十四卦に 0 から 11111 までの二進数を対応させ、彼の賞賛してきた中国の哲学的数学の偉大な成果の証拠だとした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%80%B2%E6%B3%95
******************************
ライプニッツによる二進法の確立と、ベーコンによるその応用方(応用法が先に考えられた)を合わせれば、コンピューターが生まれる。電子計算機は、信号のオンとオフとの状態を、二進法に翻訳することによって生まれた。
数を数える、という行為は、単純だが、とても奥が深い。
だったら、十二進法とかはどうやって思いつかれたというのか?
と思っていたら、次のような説明を見て、腑に落ちた。
**************************
十進法を世界で最初に考え出し、その使用を提唱したのはベルギーの商人シモン・ステヴィン(1548~1620年)です。
ステヴィンは、当代きっての軍事的天才、オラ二エ公ナッサウのマウリッツ(1567~1625年)のお抱え教師で『築城術』(1594年)を著わしたり、コペルニクスを(ガリレオに先んじて)支持する立場の本を著わした(1608年)ほか、遠近法の論文、力学の手引書、航海術の教科書、経緯測定法の教科書、船の位置を常に把握するための斜航線操舵法の改良案、さらに、『平均律』音階を利用した音楽調律理論の本、力の平行四辺形に関する独自の理論を応用した機械仕掛けの焼肉用鉄串の設計図を作ったり、等々天才と呼ぶに相応しい人だったのです。
1785年にジェームズ・マディスンは『それぞれが、違う言語で話すという不便さに次ぐものは、便宜から作られた異なる度量衡を使う不便さだ』と述べていることからも分かるように、科学者が、お互いの実験を確かめるのに役立つ国際語としての数学用語には、数を最小単位に分割し、それを表す簡単な方法が昔から必要とされていました。
ステヴィンの発明はあまりにも単純で、そんな発明が必要だったとは信じがたいほどのものだったのです。プランタンがライデンで出版した36ページの小冊子『十分の一』(1585年)の中でステヴィンは、十進法を提唱しています。1608年に出た英語版で『十進(デシマル)』という言葉が初めて英語に導入されました。
それまでの分数の取り扱いは厄介だったのです。ステヴィンの解決法は、分数の単位を全部整数として扱うというものでした。例えば、4と100分の29という数字があるとします。これを簡単に100分の1という数字が429個あるものとすると考えてはどうかとステヴィンは言ったのです。与えられた数字を一度その最小単位に還元して、整数も分数も、その単位の倍数として扱う。実験するものは、今や、全ての数をまとめて処理できるようになりました。
日常生活の面では、商人と客のもめごとや、銀行家と借り手の問題をいかに簡単なものにするかをステヴィンは示しました。ステヴィンは『小数』を用いることが、測量にも、布地や葡萄樽を計るときにも、天文学者や貨幣鋳造者の仕事にも利点となることを示しました。そして、兵士を10人、100人、1000人といった単位にわけることの利を説きました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1486284.html
**************************
ここで書かれていることは、十進法の確立、というよりは「小数における十進法の導入」の問題である。そして、小数において十進法が導入されたのはヨーロッパが最初ではなく、むしろ遅れていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%95%B0
ただステヴィンの解決法は、小数の位に桁の名前を必要としないものなので、これで一気に西洋数学は中国圏より先に進むことになった・・・んだと思う。きっと。
なにかを数えるときに、場合場合により十進法だったり十二進法だったり二十進法だったり、というのは、とくに人間の指とか関節が起源でなくてもありえることだと思う。
http://www2m.biglobe.ne.jp/%257Em-souda/mysouda/math/smith/chapter1/math21.htm
問題は、それを数える原理として徹底できるか、というところにある。そういう意味では、やはりステヴィンの解決法は画期的だったわけだ。これが17世紀初頭。
英語でBinaryという二進法の発想は、やはり 17世紀初頭にF・ベーコンによって提唱されている。
******************************
1605年、フランシス・ベーコンはアルファベットの文字を二進数字の並びで表す体系を論じ、任意の無作為なテキストで微かに判別可能なフォントの変化に符号化できるとした。二進符号化の一般理論として彼が指摘した重要な点は、同じ方法をあらゆる物に適用できるという点であり、「2種類の異なる状態をそれらの物で表現できればよく、鐘、トランペット、光、松明、マスケット銃など同様の性質があればどんなものでもよい」とした。これをベーコンの暗号と呼ぶ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%80%B2%E6%B3%95
******************************
『学問の進歩』か・・・。この考え方は、面白いし、現代的だ。Dictionary of the History of Ideasで昔読んだことがあるけれど、古代から数字が万物に割りふられている、という考えがあったらしい。
http://xtf.lib.virginia.edu/xtf/view?docId=DicHist/uvaBook/tei/DicHist3.xml;chunk.id=dv3-50;toc.depth=1;toc.id=dv3-50;brand=default
でもベーコンのこの考えは、もの自体に数が割り振られているのではなくて、ものの状態、つまり、ONであるかOFFであるか、とかに1と2の数字が割りふられうる、というもの。これはとっても近代的な考え方だ。
ライプニッツが二進法を考えたのは、こういう思想的流れのなかにある。
******************************
数学的に二進法を確立したのは17世紀のゴットフリート・ライプニッツで、"Explication de l'Arithmétique Binaire" という論文も発表している。ライプニッツは現代の二進法と同じく、1 と 0 を使って二進法を表した。ライプニッツはシノファイル(親中家)でもあり、後に「易経」を知って、その六十四卦に 0 から 11111 までの二進数を対応させ、彼の賞賛してきた中国の哲学的数学の偉大な成果の証拠だとした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%80%B2%E6%B3%95
******************************
ライプニッツによる二進法の確立と、ベーコンによるその応用方(応用法が先に考えられた)を合わせれば、コンピューターが生まれる。電子計算機は、信号のオンとオフとの状態を、二進法に翻訳することによって生まれた。
数を数える、という行為は、単純だが、とても奥が深い。
2012年4月7日土曜日
80年代の芸術的なゲーム Deus Ex Machina
ぼくは『死ぬまでに1001』シリーズが好きで映画のやつとか音楽のやつとかを見るのが好きなのだけど、最近、『死ぬまでにやりたいヴィデオゲーム1001』というシリーズ最新作を買ってみた。
見るとよくできていて、40年間のヴィデオゲームの歴史がよくわかる。アメリカのゲーマーが『マザー』や『スーパーマリオ2』なんかを長い間プレイできなかった、みたいなことも悔しそうに書いてあって日本人としてなんだか嬉しい。
80年代のファミコン時代は確かにゲームの黄金期で、コンピューターで実現可能なさまざまなゲームを多くの人が開発していった。クソゲーも多かったけれど、今みたいなお金もうけのための手抜きクソゲーが多いのではなくて、アイデアレベルのクソゲーが多かった。それはとりもなおさず、業界の活気の結果としてのクソゲーだった。
ぼくは新しいメディアが誕生し、成長していった時期にちょうど居合わせたことを幸運に思う。それは人類史上、画期的なことだった。
が、一つ悔やまれることは、当時パソコンを持っていなかったので、当時のパソコンゲームはぜんぜんプレイしていないということだ。パソコンゲーム雑誌なんかを見て、海外で開発されている突飛なゲームをうらやむ毎日だった。いまのパソコンゲームは高度になったが、そこからは当時のような驚きってのはえられない。
さて、『死ぬまでにやりたいヴィデオゲーム1001』を見ていて、ぼくが夢に見ていた(もう思い出せない)不思議な海外ゲーのどれをも超える存在がすでに80年代に生まれていたことを知った。
それはDeus Ex Machina
これはゲームというより、一つのコンセプトアルバムのような存在で、買うとゲームと音楽テープがついてきたらしい。で、ゲームをしながらテープをかける、というか、テープをかけながらゲームしたらしい。上のヴイデオでは上手くシンクロさせられている。
テーマは、コンピューター化された社会で誕生から管理されている人間の一生。DNA段階から死ぬところまでのミュ-タントの一生を、プレイヤーはインキュベーターとして守るという話。最初の方でドット絵で描かれたベイビーがでてくるけれど、視覚的にけっこう強烈だ。
まずすごいのは音楽で、ぼくはこれを聞いてLaurie Andersonを連想した。当時の実験音楽の雰囲気が満ちている。実際の音楽の担当はIan Duryというニューウェーブ音楽の人。まあぼくも知らなかったけど、70年代後半にいい音楽を作っていた人らしい。
声はドクター・フーの人で、シェイクスピアなどからの引用などを読んでいるらしい。
見ればわかるけれど、この「ゲーム」にゲーム性はあまりない。これはゲームというよりは、テーマを持ったインタラクティブな映像アートだ。あまり詳しくはないから確かなことは言えないけれど、これはいま現在のメディア芸術のレベルをはるかに超えているように思える。
少なくともぼくが東京にいたときにメディア芸術祭とかで見れた、コンピューターによるインタラクティブなインスタレーションってやつの多くは、映像や光や音の発生や変化をこちらの動きや反応によって楽しむ、というもので、そこにテーマはなかった。なんか原始的なことをして喜んでいる、という感じ。
ところがこのゲームは、オーウェル的な設定と物語がある。それを(ある程度)インタラクティブな映像表現として体験させるというとこまで行っている。このアイデアをそのままに、現代のもっと高度な機器で立体的かつ身体的なメディアアートにすれば、それだけで十分最先端のものになりそうだ。
80年代にすでにこのレベルのことを考え、実現していた、というだけでも衝撃的だ。当時先端の映像表現と、先端のお話、先端の音楽、そして先端の技術(ヴィデオゲーム)。商品としては全然売れなかったらしいけれど、これを80年代に組み合わせてみようと思った、というのはちょっと異常な創造性ではないか。
見るとよくできていて、40年間のヴィデオゲームの歴史がよくわかる。アメリカのゲーマーが『マザー』や『スーパーマリオ2』なんかを長い間プレイできなかった、みたいなことも悔しそうに書いてあって日本人としてなんだか嬉しい。
80年代のファミコン時代は確かにゲームの黄金期で、コンピューターで実現可能なさまざまなゲームを多くの人が開発していった。クソゲーも多かったけれど、今みたいなお金もうけのための手抜きクソゲーが多いのではなくて、アイデアレベルのクソゲーが多かった。それはとりもなおさず、業界の活気の結果としてのクソゲーだった。
ぼくは新しいメディアが誕生し、成長していった時期にちょうど居合わせたことを幸運に思う。それは人類史上、画期的なことだった。
が、一つ悔やまれることは、当時パソコンを持っていなかったので、当時のパソコンゲームはぜんぜんプレイしていないということだ。パソコンゲーム雑誌なんかを見て、海外で開発されている突飛なゲームをうらやむ毎日だった。いまのパソコンゲームは高度になったが、そこからは当時のような驚きってのはえられない。
さて、『死ぬまでにやりたいヴィデオゲーム1001』を見ていて、ぼくが夢に見ていた(もう思い出せない)不思議な海外ゲーのどれをも超える存在がすでに80年代に生まれていたことを知った。
それはDeus Ex Machina
これはゲームというより、一つのコンセプトアルバムのような存在で、買うとゲームと音楽テープがついてきたらしい。で、ゲームをしながらテープをかける、というか、テープをかけながらゲームしたらしい。上のヴイデオでは上手くシンクロさせられている。
テーマは、コンピューター化された社会で誕生から管理されている人間の一生。DNA段階から死ぬところまでのミュ-タントの一生を、プレイヤーはインキュベーターとして守るという話。最初の方でドット絵で描かれたベイビーがでてくるけれど、視覚的にけっこう強烈だ。
まずすごいのは音楽で、ぼくはこれを聞いてLaurie Andersonを連想した。当時の実験音楽の雰囲気が満ちている。実際の音楽の担当はIan Duryというニューウェーブ音楽の人。まあぼくも知らなかったけど、70年代後半にいい音楽を作っていた人らしい。
声はドクター・フーの人で、シェイクスピアなどからの引用などを読んでいるらしい。
見ればわかるけれど、この「ゲーム」にゲーム性はあまりない。これはゲームというよりは、テーマを持ったインタラクティブな映像アートだ。あまり詳しくはないから確かなことは言えないけれど、これはいま現在のメディア芸術のレベルをはるかに超えているように思える。
80年代にすでにこのレベルのことを考え、実現していた、というだけでも衝撃的だ。当時先端の映像表現と、先端のお話、先端の音楽、そして先端の技術(ヴィデオゲーム)。商品としては全然売れなかったらしいけれど、これを80年代に組み合わせてみようと思った、というのはちょっと異常な創造性ではないか。
2012年4月6日金曜日
若いときに感性が豊かなのは本当か
原理的には、人ができることには二つしかない。感じることと学ぶことである。人は感じ、学ぶ生き物である。
学ぶってことは学習することだけれど、これと「成長する」ことは別だ。酒の味を学んで酒乱になるかもしれない。学ぶこととは、むしろ習慣をつけることである。
ある感覚、感情を抱き、その体験をもとに次の行動を決めるようになる。それが学習することだ。要するに、感覚と記憶が人間の二大機能なのだ。
ところで最近、自分が今まで生きてきて、人が体験しうるあらゆる感情や感覚をもう味わった、という気がする。学習することはまだまだあるかもしれないが、アトム的な要素である個々の感覚や感情で体験したことがない、というのはないだろう。
自分で直接に体験したことに加え、映画や本を通じて体験した感覚もたくさんある。擬似的な感覚というのはない。想像されたものでなければ、感じられた感覚というのはすべてリアルなものだ。それを強く体験すれば、感情もまた味わえる。たとえば『プライベート・ライアン』を見てほんとに戦争の恐怖を感じれば、そこにいた兵士の感情も幾分かは知ることができる。感情もそれが想像されたのでなければ、やはりすべてリアルだ。
となると、もう新しい体験はないのだろうか。そんなことはない。感覚や感情というのは組み合わせられるものだ。たとえば、にがいとすっぱいとかいう感覚は、それぞれ別個に体験したことがあっても、同時にはないかもしれない。同時に二つの味がすればそれは新しい体験となる。可笑しいと怖いとかいう感情も、それ単体ではありふれているけれど、組み合わせられればやはり新しい体験となる。
ほかには、同じ感覚や感情でも、体験する場が違うとそれは新しい体験となる。たとえばスポーツをしていてはらはらしたことがあっても、人のスピーチを聞いていてはらはらしたことはないかもしれない。縁側でぽかぽかしたことはあっても、ダンスを見ていてぽかぽかしたことはないかもしれない。それを感じる場が違えば、それと今まで同じ感情を体験していたとしても、新しいセンセーションを感じることになる。
同じ感覚や感情の違うバリエーションというのもある。あんぱんの甘さとおはぎの甘さは少し違う。でも、はじめて人がバナナを食べたときに驚きながら感じた甘さと、そのあとメロンを食べたときに感じる甘さでは、前者のほうがより強烈だっただろう。なんでも初めてというのは強烈だ。
いまぼくは、アデルやブライト・アイズを聞いて感動するけれど、もしこれをニール・ヤングやボブ・ディランを聞く前に聞いていてとしたら、この人たちはぼくにとって神になっていただろうと思う。もちろん、最近のアーティストの音楽を聴いておぼえる感動ってのは、質としては若いときにレナード・コーエンを聞いたときのそれと劣るわけではない。でも、それはぼくにとってはすでに感じたことのバリエーションの一つなのであって、ファーストインパクトの驚きを与えはしない。
若いときには「感性」が豊かだ、ということがよく言われるが、これは嘘だ。若いときには感性が豊かでいろんなことに感じていた、というのは、要するにファーストインパクトの強烈さをいろんなことに感じていた、というだけである。こういうセリフを言う人間は、ほんとは自分の「感性」を育ててこなかったのだ。
実際は、人はいろんな感覚や感情を味わえば味わうほど、その区別が細かくつくようになる。感覚の鋭さに関しては生まれつきで決定されている面もあるだろうが、感情に関してはそういうことはない。人は多くの体験をすればするほど、より多くの感情のバリエーションを持つようになっていく。つまり、記憶を蓄えれば蓄えるほど、より「繊細な」感情を持つようになる。それも学ぶということだ。
2012年3月16日金曜日
今さらだけどスティーブ・ジョブスはすごかった
今日、ipadの新型が発売されたと聞いてお店に行ってみたら、おいてなかった。なぜだろうか。
ここが田舎なのか。 しかし、ネットで見ても、発売されたのは「ipadの新型」であって、ipad3ではない。わけわかんない。さらに新型がでたらどうするんだろうか? FinalFantasyの新型とか聞いても、それが14なのか15なのかもうわかんないように、ナンバリングというか、名前をつけるのは大事なことだと思う。スティーブ・ジョブズが生きていたらそんなことを許しただろうか?
さて、彼のこの演説を久々に見直して、やっぱり彼はすごいと思った。なにがすごいかって、彼は経営者である。であるからには、キャッシュフローのやりくりとか、効果的な人の雇い方、いかに人を上手く使うかとか、いかにして売れる新製品を開発するか、とか、お金出して聞きたいっていう人がたくさんいるような話題を、彼はいくらでも話すことができる。
んが、彼はそういう話をいっさいしなかった。それで、彼の人生を決定づけた三つのことについてだけ話している。それで十分すごい話だっていうこと自体がすごいことなんだけど、要するに、ものすごい大きなことについてしか話していない。こういう次元に到達できる人間というのは少ない。
こういうことを考えるようになったのは、いまある人のメルマガを購読しているから。その人もやはり企業の経営者なんだけど、それなりに大きくて面白い話をする。たとえばこれ↓
http:// ameblo. jp/tets uofunah ara/ent ry-1119 4008431 .html
ほかにもいくつか個人事業者の人とかのメルマガを読んでいるけれど、だいたいはノウハウレベルの話が多い。つまり、小さい話が多い。ところが、上のブログの人は、一次元上の話をしている。それは、彼が普通の事業者よりも一次元上の段階にいるからだと思う。これより上ということになれば、ジョブズになる
多くの人にとって面白い話をする、というのはすごいことだ。子供のときに毎週聞かされた校長先生の話なんか、一つも覚えているものはない。大学の卒業式で、当時の学長の話を聞いたけれど、思わず失笑しそうになるほどつまんない話でびっくりした。一生のあいだに、それだけ大勢の人に一度に話をする機会というのは大学の学長といえどそう多くない。その貴重な機会に、希望に燃える若者の心をうつ話をできない、ということは、彼の人生が若者の心を打つようなものではなかった、ということだ。
人生で経験することが人を思考させ、それがその人の話すことのレベルを決定する。いまさらだけど、スティーブ・ジョブズのこの演説はまさに最高レベルのそれである、ということを確信するのだった。
ここが田舎なのか。 しかし、ネットで見ても、発売されたのは「ipadの新型」であって、ipad3ではない。わけわかんない。さらに新型がでたらどうするんだろうか? FinalFantasyの新型とか聞いても、それが14なのか15なのかもうわかんないように、ナンバリングというか、名前をつけるのは大事なことだと思う。スティーブ・ジョブズが生きていたらそんなことを許しただろうか?
んが、彼はそういう話をいっさいしなかった。それで、彼の人生を決定づけた三つのことについてだけ話している。それで十分すごい話だっていうこと自体がすごいことなんだけど、要するに、ものすごい大きなことについてしか話していない。こういう次元に到達できる人間というのは少ない。
http://
ほかにもいくつか個人事業者の人とかのメルマガを読んでいるけれど、だいたいはノウハウレベルの話が多い。つまり、小さい話が多い。ところが、上のブログの人は、一次元上の話をしている。それは、彼が普通の事業者よりも一次元上の段階にいるからだと思う。これより上ということになれば、ジョブズになる
多くの人にとって面白い話をする、というのはすごいことだ。子供のときに毎週聞かされた校長先生の話なんか、一つも覚えているものはない。大学の卒業式で、当時の学長の話を聞いたけれど、思わず失笑しそうになるほどつまんない話でびっくりした。一生のあいだに、それだけ大勢の人に一度に話をする機会というのは大学の学長といえどそう多くない。その貴重な機会に、希望に燃える若者の心をうつ話をできない、ということは、彼の人生が若者の心を打つようなものではなかった、ということだ。
人生で経験することが人を思考させ、それがその人の話すことのレベルを決定する。いまさらだけど、スティーブ・ジョブズのこの演説はまさに最高レベルのそれである、ということを確信するのだった。
2012年3月10日土曜日
就職活動で絶対に成功する方法
良い就職・転職先を決める三つの要素 ~ 経済評論家・山崎元のビジネス羅針盤
http://www.r-agent.co.jp/guide/yamazaki/20110818.html
上の記事はよい。今の時代、こんなふうに冷静に就職について話す人が出てきたんだなあ、という感じ。むかしからいたのかもしれんが。
最近日本では就職活動ってのがはやっているらしい
http://ameblo.jp/tetsuofunahara/entry-11186256430.html
はやってるつっても、まあ毎年のことだろうけど、これ、日本だけの現象なんだよね、婚活とかと同じく。ほかの国は知らんが、フランスでは就職は行きたいところにCVという履歴書と動機書を自分で全部作って、送る、それをひたすらやる。新卒っていう概念がないし、みんなしょっちゅう仕事探しているので、逆に新卒の方が厳しい。
まあそれはいい。どちらにせよ、どこかに雇ってもらうってことは、どれだけその職場でお金を稼げるか、あるいはそこで上手に歯車になれるか、その可能性を見せるってことの結果としてある。それをわかっていて、どこに行きたいかがわかっているんなら、就活なんて100パー成功するはず。
たとえば、どこかのメーカーで働きたいんなら、チリでいま取引しているとこより三割も安く仕入れるって情報を手に入れて、仕入れと輸送のめどまで大まかにたてていれば、採用される。それを面接官とかに話すんじゃなくて、経営者レベルの人に話す。
だって、エントリーシートとかを何十枚も書いて何十社にもあてずっぽに送って、一社ずつ朝起きして面接とかに行くより、そういうレベルのことを集中してやったほうが絶対能率はいいわけよ。そして、そこまで知識とノウハウを持っていたら、その会社じゃなくても、関連企業にもその案をもっていける。というか、そういう勉強をしたってことが何より今後役に立つ。
でも、そういうことする人はいないだろうな。というか、そんだけできるんなら自分で起業するって。
というわけで、より現実的な策としては、上のブログの人が書いているように
http://ameblo.jp/tetsuofunahara/entry-11186256430.html
--------------------------------
そんなことよりも
きちんと質問を理解して答えられているかとか
(コミュニケーションをしっかりと出来ない人はとても多いです)
言ったことを言ったとおりに出来るかとか
(言ったことを言ったとおりに出来ない人はとても多いです)
そういうことの方が重要です。
--------------------------------
ま、この二つができればそれで問題はないと思う。
きちんと質問を理解して答えられ、
言ったことを言ったとおりに出来る
とか、そんな人、フランス人には100人に一人もいない。
というか、いるのかって感じだ。
日本はレベルが高いのかもしれんが、まあこの二つさえできれば
間違いないだろう。それが難しいんだけど・・・・
さらに言えば、それがなぜそんなに難しいか、ということまで
理解していれば、まず間違いない。
あとは面接官に興味を持ってもらえれるように
多少は目立っておく、とういうことくらい。
よくありがちな就職活動の落とし穴は、
自分の社会的価値とか存在意義まで
まだついてもいない仕事に見いだそうとしたりする
ことにある。
はじめの記事の内容と一致するけれど、
そういうことはすっぱり忘れて
いかに今後継続的にお金を稼いで
この世の中で生き延びていくのか
ということだけに集中するのが正解。
ま、ぼく自身は就活はしたことないんだけども。
http://www.r-agent.co.jp/guide/yamazaki/20110818.html
上の記事はよい。今の時代、こんなふうに冷静に就職について話す人が出てきたんだなあ、という感じ。むかしからいたのかもしれんが。
最近日本では就職活動ってのがはやっているらしい
http://ameblo.jp/tetsuofunahara/entry-11186256430.html
はやってるつっても、まあ毎年のことだろうけど、これ、日本だけの現象なんだよね、婚活とかと同じく。ほかの国は知らんが、フランスでは就職は行きたいところにCVという履歴書と動機書を自分で全部作って、送る、それをひたすらやる。新卒っていう概念がないし、みんなしょっちゅう仕事探しているので、逆に新卒の方が厳しい。
まあそれはいい。どちらにせよ、どこかに雇ってもらうってことは、どれだけその職場でお金を稼げるか、あるいはそこで上手に歯車になれるか、その可能性を見せるってことの結果としてある。それをわかっていて、どこに行きたいかがわかっているんなら、就活なんて100パー成功するはず。
たとえば、どこかのメーカーで働きたいんなら、チリでいま取引しているとこより三割も安く仕入れるって情報を手に入れて、仕入れと輸送のめどまで大まかにたてていれば、採用される。それを面接官とかに話すんじゃなくて、経営者レベルの人に話す。
だって、エントリーシートとかを何十枚も書いて何十社にもあてずっぽに送って、一社ずつ朝起きして面接とかに行くより、そういうレベルのことを集中してやったほうが絶対能率はいいわけよ。そして、そこまで知識とノウハウを持っていたら、その会社じゃなくても、関連企業にもその案をもっていける。というか、そういう勉強をしたってことが何より今後役に立つ。
でも、そういうことする人はいないだろうな。というか、そんだけできるんなら自分で起業するって。
というわけで、より現実的な策としては、上のブログの人が書いているように
http://ameblo.jp/tetsuofunahara/entry-11186256430.html
--------------------------------
そんなことよりも
きちんと質問を理解して答えられているかとか
(コミュニケーションをしっかりと出来ない人はとても多いです)
言ったことを言ったとおりに出来るかとか
(言ったことを言ったとおりに出来ない人はとても多いです)
そういうことの方が重要です。
--------------------------------
ま、この二つができればそれで問題はないと思う。
きちんと質問を理解して答えられ、
言ったことを言ったとおりに出来る
とか、そんな人、フランス人には100人に一人もいない。
というか、いるのかって感じだ。
日本はレベルが高いのかもしれんが、まあこの二つさえできれば
間違いないだろう。それが難しいんだけど・・・・
さらに言えば、それがなぜそんなに難しいか、ということまで
理解していれば、まず間違いない。
あとは面接官に興味を持ってもらえれるように
多少は目立っておく、とういうことくらい。
よくありがちな就職活動の落とし穴は、
自分の社会的価値とか存在意義まで
まだついてもいない仕事に見いだそうとしたりする
ことにある。
はじめの記事の内容と一致するけれど、
そういうことはすっぱり忘れて
いかに今後継続的にお金を稼いで
この世の中で生き延びていくのか
ということだけに集中するのが正解。
ま、ぼく自身は就活はしたことないんだけども。
登録:
投稿 (Atom)