2012年4月6日金曜日

若いときに感性が豊かなのは本当か


原理的には、人ができることには二つしかない。感じることと学ぶことである。人は感じ、学ぶ生き物である。

学ぶってことは学習することだけれど、これと「成長する」ことは別だ。酒の味を学んで酒乱になるかもしれない。学ぶこととは、むしろ習慣をつけることである。

ある感覚、感情を抱き、その体験をもとに次の行動を決めるようになる。それが学習することだ。要するに、感覚と記憶が人間の二大機能なのだ。


ところで最近、自分が今まで生きてきて、人が体験しうるあらゆる感情や感覚をもう味わった、という気がする。学習することはまだまだあるかもしれないが、アトム的な要素である個々の感覚や感情で体験したことがない、というのはないだろう。

自分で直接に体験したことに加え、映画や本を通じて体験した感覚もたくさんある。擬似的な感覚というのはない。想像されたものでなければ、感じられた感覚というのはすべてリアルなものだ。それを強く体験すれば、感情もまた味わえる。たとえば『プライベート・ライアン』を見てほんとに戦争の恐怖を感じれば、そこにいた兵士の感情も幾分かは知ることができる。感情もそれが想像されたのでなければ、やはりすべてリアルだ。


となると、もう新しい体験はないのだろうか。そんなことはない。感覚や感情というのは組み合わせられるものだ。たとえば、にがいとすっぱいとかいう感覚は、それぞれ別個に体験したことがあっても、同時にはないかもしれない。同時に二つの味がすればそれは新しい体験となる。可笑しいと怖いとかいう感情も、それ単体ではありふれているけれど、組み合わせられればやはり新しい体験となる。

ほかには、同じ感覚や感情でも、体験する場が違うとそれは新しい体験となる。たとえばスポーツをしていてはらはらしたことがあっても、人のスピーチを聞いていてはらはらしたことはないかもしれない。縁側でぽかぽかしたことはあっても、ダンスを見ていてぽかぽかしたことはないかもしれない。それを感じる場が違えば、それと今まで同じ感情を体験していたとしても、新しいセンセーションを感じることになる。


同じ感覚や感情の違うバリエーションというのもある。あんぱんの甘さとおはぎの甘さは少し違う。でも、はじめて人がバナナを食べたときに驚きながら感じた甘さと、そのあとメロンを食べたときに感じる甘さでは、前者のほうがより強烈だっただろう。なんでも初めてというのは強烈だ。

いまぼくは、アデルやブライト・アイズを聞いて感動するけれど、もしこれをニール・ヤングやボブ・ディランを聞く前に聞いていてとしたら、この人たちはぼくにとって神になっていただろうと思う。もちろん、最近のアーティストの音楽を聴いておぼえる感動ってのは、質としては若いときにレナード・コーエンを聞いたときのそれと劣るわけではない。でも、それはぼくにとってはすでに感じたことのバリエーションの一つなのであって、ファーストインパクトの驚きを与えはしない。


若いときには「感性」が豊かだ、ということがよく言われるが、これは嘘だ。若いときには感性が豊かでいろんなことに感じていた、というのは、要するにファーストインパクトの強烈さをいろんなことに感じていた、というだけである。こういうセリフを言う人間は、ほんとは自分の「感性」を育ててこなかったのだ。

実際は、人はいろんな感覚や感情を味わえば味わうほど、その区別が細かくつくようになる。感覚の鋭さに関しては生まれつきで決定されている面もあるだろうが、感情に関してはそういうことはない。人は多くの体験をすればするほど、より多くの感情のバリエーションを持つようになっていく。つまり、記憶を蓄えれば蓄えるほど、より「繊細な」感情を持つようになる。それも学ぶということだ。

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