見るとよくできていて、40年間のヴィデオゲームの歴史がよくわかる。アメリカのゲーマーが『マザー』や『スーパーマリオ2』なんかを長い間プレイできなかった、みたいなことも悔しそうに書いてあって日本人としてなんだか嬉しい。
80年代のファミコン時代は確かにゲームの黄金期で、コンピューターで実現可能なさまざまなゲームを多くの人が開発していった。クソゲーも多かったけれど、今みたいなお金もうけのための手抜きクソゲーが多いのではなくて、アイデアレベルのクソゲーが多かった。それはとりもなおさず、業界の活気の結果としてのクソゲーだった。
ぼくは新しいメディアが誕生し、成長していった時期にちょうど居合わせたことを幸運に思う。それは人類史上、画期的なことだった。
が、一つ悔やまれることは、当時パソコンを持っていなかったので、当時のパソコンゲームはぜんぜんプレイしていないということだ。パソコンゲーム雑誌なんかを見て、海外で開発されている突飛なゲームをうらやむ毎日だった。いまのパソコンゲームは高度になったが、そこからは当時のような驚きってのはえられない。
さて、『死ぬまでにやりたいヴィデオゲーム1001』を見ていて、ぼくが夢に見ていた(もう思い出せない)不思議な海外ゲーのどれをも超える存在がすでに80年代に生まれていたことを知った。
それはDeus Ex Machina
これはゲームというより、一つのコンセプトアルバムのような存在で、買うとゲームと音楽テープがついてきたらしい。で、ゲームをしながらテープをかける、というか、テープをかけながらゲームしたらしい。上のヴイデオでは上手くシンクロさせられている。
テーマは、コンピューター化された社会で誕生から管理されている人間の一生。DNA段階から死ぬところまでのミュ-タントの一生を、プレイヤーはインキュベーターとして守るという話。最初の方でドット絵で描かれたベイビーがでてくるけれど、視覚的にけっこう強烈だ。
まずすごいのは音楽で、ぼくはこれを聞いてLaurie Andersonを連想した。当時の実験音楽の雰囲気が満ちている。実際の音楽の担当はIan Duryというニューウェーブ音楽の人。まあぼくも知らなかったけど、70年代後半にいい音楽を作っていた人らしい。
声はドクター・フーの人で、シェイクスピアなどからの引用などを読んでいるらしい。
見ればわかるけれど、この「ゲーム」にゲーム性はあまりない。これはゲームというよりは、テーマを持ったインタラクティブな映像アートだ。あまり詳しくはないから確かなことは言えないけれど、これはいま現在のメディア芸術のレベルをはるかに超えているように思える。
80年代にすでにこのレベルのことを考え、実現していた、というだけでも衝撃的だ。当時先端の映像表現と、先端のお話、先端の音楽、そして先端の技術(ヴィデオゲーム)。商品としては全然売れなかったらしいけれど、これを80年代に組み合わせてみようと思った、というのはちょっと異常な創造性ではないか。
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