2012年5月3日木曜日

いま科学は健康か

放射能被害については、一定の量以上なら詳しいことがわかっているが、年間100ミリシーベルト以下の場合だとまだよくわからない、ということが言われている。

これは、有意義な結果がまだ確認できていない、ということなのだが、これを利用して、100ミリ以下なら大丈夫だ、と論じる連中がいる。

このエントリーでは、なぜこうした言論が科学的ではないか、そしてなぜこのような言説が生まれてしまうのか、ということを論じる。


去年の原発事故の後、関東で子供の甲状腺異常や、異常な量の鼻血といった事例が数多く報告された。これらは、チェルノブイリにおける被曝の初期症状であると同じである。だが、これらの報告を、そんなことはいつでも起きていることだ、とか、そもそも放射能で甲状腺に異常を引き起こしたり出血はしない、などという連中がいる。そして、こういう連中のよりどころが「科学」なのだ。

知識は、一つの事実から得られるものではない。知識はつねに複数の事実を結びつけることによって得られる。二つの事実を結びつける能力、それが知性である。上の、「科学」を縹渺する連中は、福島とチェルノブイリにおける同様の症状という、二つの事実の関連を消去しようとする。そして、これはとても簡単にできる。

これは、次の三つの方法によってなされる。


1.考えられうる原因の複数性

一つの事実の原因には、つねに複数の理由を与えることができる。これの原因は被曝ではない、ほかにある。確かにこう主張することはできる。これはストレスである云々。

被曝による健康被害よりも、それを気にすることのストレスによる健康被害のほうが大きい、という言説がある。こうした言説を認めると、すべての健康被害は被曝によるものではなく、ストレス性のものとして扱われることになるだろう。

同じような症状を引き起こしえる原因はつねに複数ある。チェルノブイリ後、白ロシアで癌が増えたのはウォッカのせいだ、という者もいる。福島でもし癌被害者が増えても、これと同じことが言われるだろう。そこのお酒が原因だ云々。

この方法は、有意味な統計的事実を無視することに存している。では、統計的事実をきちんと重んじれば、被曝による健康被害を正確に把握できるのかというと、必ずしもそうではない。


2.確率論的変換

被爆被害の統計というのは、この程度の被爆だと数パーセント癌が増える、といったものだ。重要なのは、これは個々の症状の原因を特定するために使うことはできない、ということだ。たとえば被曝後、癌になったとしても、上の「考えられうる原因の複数性」を論拠として、これは被曝が原因ではない、と主張することはつねにできる。

つまり、統計的事実が、単なる確率論上の推測へと変換されてしまうということだ。これが積み重なり、個々の症例がすべて疑われれば、どんなに有意味な数値が統計上出ていても、原因はほかにある、と主張することができてしまう。たとえば、上のウォッカ原因説のように。


3.事実の否認

この方法が最も簡単である。患者本人には明らかにでている症状であるのに、「気のせいだ」としてしまえばよい。こうすればそもそも数値に上がってこない。日本の医療は誠実でありえるかというと、それはきわめて疑わしい。

そもそも、ある病気の認定というのは実はとても不安定なものだ。医者というのは、誰もが知っているわかりすい症状を訴える患者に対してはすぐに病名を診断できるが、聞いたことのない症状だとすぐには診断できない。それどころか、それに対応する病気を知らないために、それは病気ではない、と診断することが往々にしてある。


1.2.3に共通する態度は、ある症状の原因を恣意的に想定したり、あるいは想定しないことによって、すでに起きている複数の事実間の有意味な連関を見ない、ということだ。なぜこういう態度が生じるのか、ということが問題だ。

それは、人間は、事実から原因を探るのではなく、すでに知っている原因をもとに事実について判断することになれているからだ。事実→原因、ではなく、原因→事実への方向に思考する。すると、原因を知らない事実の存在を無視したり否認したりする、ということが起こる。これは、誰もが日常的に体験する思考の特性だと思う。

だが、科学というのは、それがどんな原因かまだわからない事実について、その近接原因を探求する、ということにその真の価値がある。すでに知られている理論をいまある事実に当てはめて理解する、というのは、科学的探求の結果、得られる理論を元にしている。つまり、1.はじめに事実に基づく探求があり、2.次に理論の構築があり、3.さらにそれによる多様な現象の理解への応用がある。3の部分だけを取り出して「科学的」とのたまう人間は、科学とは何かについて一度も考えたことがないのである。

科学的手法により得られた有意味な統計事実を無視して、個々の症例の原因を恣意的に推測する、というのは科学的ではない。しかし、それは科学的な衣装をまというる。たとえば、ストレスによって癌が生じうるのは科学的事実だ。それのデータだけ見せて、被曝による原因が疑われるデータは無視すればよい。すると、この世から被曝による健康被害は存在しなくなる。


つまり、これは科学というより、誠実さの問題なのだ。人がすでに知っているはずの事実が、もう一つの事実と関連していることを認めるのか、そうでないのか。

ぼくの見るところ、こうした誠実さを保った上で、なおかつ上で述べた科学的手法によって、まだ未知のある現象の原因を、事実に直接当たることによって収集して研究し、その結果を公に発言している科学者というのはほとんどいない。彼らはみな、大きな現象の中のある細かな事実と細かな事実の細かな関連について研究し、その成果がかろうじて認められただけで、被曝の影響と健康被害の原因との関連、のような大きなことについて研究したわけではないし、きちんと調べたわけでもない。そういう学者が、すでに知られていることを恣意的に用いて、いまある事実を恣意的に説明している、というが昨今の流行なのだ。というか、そういう連中が健康な科学的精神をそもそも持っているか、ということからして疑わしい。というのも、多くの科学的実験というものは、すでに知られているある現象の原因を、ほかの現象に当てはめて説明した、というのがほとんどだからだ。ここには、真の科学的精神の発露の機会はあまりない。


いまのところ、被曝による被害は、統計上でまず確認できるが、個々の症例の診断において直ちに被曝が原因と特定できるわけではない。だが、統計学的事実というのは偶然の産物ではない。個々の症例の発症は偶然であるが、それがある母集団において一定の割合で確認できる、というのは確かな事実である。

しかし、これをわざとかどうか知らないが取り違えて、原因はほかにありうる、と主張する連中は、往々にしてその根拠となる数値をまったく出してこない。こいつらは、ちっぽけな自己満足と引き替えに他人の健康を売り渡すことを何とも思わない小賢しい人間のクズだ。

科学は、最も有意味に現れている事実の連関を最も重視していくことにその意義がある。ある人の不調の原因は二世代前の祖先の呪いだ、という命題は、有意味な事実の連関を確認できないので、科学的なものたりえない。急増した癌の原因はウォッカだというのは、有意味な事実の連関をより有意味でない事実の連関に意図的に置き換えようとしているので、科学的ではない。

福島とチェルノブイリの事故の後、似たような健康障害が出た、というのは、Aという共通の現象の後、共通のBという結果が得られた、というもので、確認できた二つの事実の相関関係(原発事故のあとの症状が・・・)が、それぞれ相関関係にある(同じ症状である)、ということだ。二つの事実の相関関係だけでは因果関係の十分条件を満たすに過ぎないが、二つの相関関係にそれぞれ相関性がある、というのは必要条件をも満たすのではないだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%96%A2%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%A8%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E9%96%A2%E4%BF%82

広範囲に分布している内部被曝者への実態調査が大幅に遅れたのは、被曝で健康被害は起きないとか、いま起きている症状は被曝が原因とは言えない、という無責任で小賢しい世論の声に後押しされたからだだろう。有意味な事実の連関を把握するためにも、まずは調査が必要であるのに、それをしてこなかった。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2012/02/post_3290.html
日本人は、偽の科学的精神にだまされ、自らの首を絞めたのである。

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