2012年4月29日日曜日

日本における「エロ」の多様さ

日本人はマッカーサーに「日本人の精神年齢は三歳くらいだ」とか言われたことをトラウマに思って、欧米人に劣等感を持ってしまったりするようなのだが、人間の豊かさや成長の度合いを測る基準にはいろいろある。

たとえば、日本人は世界で一番、「エロい」ということについて繊細で多様な感覚を持っている。これは誇りに思っていい。

サウジアラビアという国に入った人のブログをたまたま読んだのだけど、入国するときにハードディスクにあるエロ画像を二時間かけてすべて消されたらしい。
http://www.worldwidehunters.com/archives/51937522.html

あの国では、エロ画像や動画はすべて禁止で、きっとネットでも見れないようになっているに違いない。するとどうなるか。「エロ」にもいろいろある、ということがわからなくなるのである。エロにも、健康的なエロ、絶対領域のエロ、見えそうで見えないパンツのエロさ、などといろいろある。ところが、こうした豊かにエロに触れることのできないまま大人になってしまうと、エロ=セックスになってしまう。

おそらく、一世紀前までは世界のどこでも似たような状況だっただろう。しかし、日本では江戸時代後期に、セックスを描いた春画以外にも、美人画や危絵といった中間ジャンルが育っていた。これこそ、今の日本の繊細なエロの源流である、と思う。

メディアを通じてある特殊な感性が一般化する。日本には、そうした一般化した特殊な感性が多くある。エロもその一つで、これは文化だ。「エロさ」は明らかなポルノ作品にだけあるのではなく、ほぼすべての漫画やアニメにある。ほかにも、大江健三郎のようないかにもまじめな感じの小説家がやけにエロい小説を書いていたりするっていうのは、日本だけではないだろうか。フランスで有名なウェルベックなんかは見た目からしてエロそうだ。まあどうでもいいが。

さまざまな種類のエロさを楽しめる土壌のある日本文化というのは、じつは世界的にみてものすごく貴重なものなのだ。これは、西洋におけるエロ表現を見ればすぐわかる。もっとも、日本の多様なエロさの表現とその分布領域についてまじめな研究をした人はいないだろうし、そんなテーマを思いついた人さえいないだろう。エロというものが取るに足らないものだと思われているのは、文化的な損失だ。さらに言えば、日本のエロといえば、AV女優ばかりが世界的に有名な状況は、日本本来のポテンシャルからして非常に不本意である。

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