2012年5月6日日曜日

セックスレスの原因と理由

相関社会出身の人がこんな記事を書いていた。

セックスレスは日本の国民病?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2006700&media_id=133

彼によると、いまの日本のセックスレスの原因は、女性がより自由になったからだそうだ。でも、これは嘘だと誰もが知っているのではないだろうか? たとえば、表紙がびっくりの『セックスレスな男たち』とか、『求められない女』といった本がある。

これらの本で紹介されているのは、恋人や妻とセックスをしない男たちと、その相手の話なわけだ。だいたい、セックスレスになって被害が大きいのは女性の側だ。日本を含むアジアに住んでいれば男は簡単に風俗で性欲を処理できるが、女性はそうではないからだ。セックスレスになったカップルの女性の側からの報告は悲痛なものが多い。ネットで探せばいくらでも出てくる。
http://www.healing.ac/ask/212.html

セックスレスの原因は性欲の低下ではない。そもそも、人間から性欲がなくなるということはありえない。実際、セックスをパートナーに求めない男は風俗に通う。これはどういうことかというと、性欲と、特定の相手とセックスしたい欲望というのは別だ、ということだ。これはちょっと考えてみれば当たり前のことで、どんな人でも、性欲があるからといって、誰とでもしたいというわけではないだろう。例・その気になれば人間は同性とでもセックスできるが、それを選ばない人の方がいまのところは多い。

人が特定の相手とセックスをしたくなるのは、その相手と一緒にいたり話したりするのが気持ちよくて、身体的接触もまた気持ちがいいときだ。

あるカップルがセックスレスになるのは、それゆえ次の二つの原因からだと思われる。

1.一方が他方と一緒にいたりはなしたりすることに喜びを感じていない

http://homepage2.nifty.com/alina/life-100ka/life-sexless-01.htm

2.一方が他方との身体的接触に喜びを感じていない

http://blog.kongai.com/?eid=513306#sequel

どちらか一方の理由があるだけでもセックスレスになる。ほかにも原因はあるだろうが、それらはすべて一時的なものであるだろう。避妊法はあるのだから、妊娠が怖い、というのも本当の理由ではないはずだ。

多くの人はそんなことが原因だとは言わないだろう。事実、この記事に関する日記をいろいろ読んでみたが、上の二つが原因だと言う人は一人もいない。こんなことは、あまりに当たり前すぎて気づくことができないのだ。

セックスレスが日本の国民病であるのはぼくもそうだと思う。このことは、日本人が他人と一緒にいたり接触したりする、ということに喜びを見いだしていない、ということだ。これはかなり末期的な状態だと思う。

いままで、誰かと一緒にいて本当に気持ちがよかったことがあるのか、その人との身体的接触が本当に気持ちよかったか。これにyesと応える人の割合は、やはり日本人が世界で一番低いはずだ。人との接触から喜びをえる、ということが日本人はすごく下手というか、それが喜びであること自体をあまり知らない。それがセックスレスの原因であり理由だ。日本人がほかの国の人と比べて性欲が弱いとかそんなことは絶対ない。これはsocialな次元の問題なのだ。

さて、セックスレスになったカップルの話を読むと、どうしてその人と結婚したりつきあったのかがそもそも理解できない、という類いの話が多い。結婚する前はセックスに応じていた女性が結婚後は応じなくなったとか。しかし、相手が自分とのセックスを本当に喜んでいるかなんてつきあっているうちにわかるはずのことだ。というか、「2.一方が他方との身体的接触に喜びを感じていない」の原因は往々にして「1.一方が他方と一緒にいたり話したりすることに喜びを感じていない」であるので、セックスレスなカップルは、そもそもつきあっていること自体が間違っている場合が多い。

そうした状態のカップルが数多く見られるということは、多くの人が自分に合わない相手とつきあっている、ということだ。あるいは、そもそも人と一緒にいたりすることに喜びを感じない者がつっくいている、か。


人と接する直接的な喜びに目覚めないまま人生をすごしていく人がこのまま増えれば、風俗産業はますます栄え、相手にされない片割れの悲痛な叫びがますます世にこだますることになる。その叫びが、人生ではじめて人の心と身体に触れることの大切さに気づいた証である、というのはかなり凄惨な事態だ。

そんななか、下のような、ある本へのレビューには希望がみえる。
http://goo.gl/IJ9jI
以下引用
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男性の本音や心の機微が綴られているので、恋愛中の人も是非読んでほしいです。 
男性が何に傷つき、何に怒るのか。 
私も知っているつもりで知らなかったことが 
たくさんありましたから。 

私自身、好きな人となぜか噛み合わなかったり、距離ができたり、 
恋愛で壁にぶつかっているとき読み返すようにしています。 

本書はセックスレスを題材にしながら、 
男女のコミュニケーションの問題に深く切り込んでいます。 
そして、気づかされます。 

うまくいかないのは相手の気持ちを慮ってないときで 
うまくいくのは相手の気持ちを念頭において行動しているとき。 
相手の気持ちに敏感であれば、彼が何に傷つき何に怒るのかが 
自ずと分かるようになります。 

そして、目的のためには恥や自意識(=プライド)をかなぐり捨てることが大事。 
恥ずかしがらずに素直に思いを表現したほうが相手の心に響く。 
この正攻法に勝るテクニックはないという事実を、本書が証明してくれています。 

結局は、相手に対する想像力や思いやり。 
相手を変える前に、自分を変えるべきなんですね。 

30歳半ばに差しかかって変にプライドばかり高くなり、 
男性に素直に意思表示できなくなっていた私は 
本書を読んで大分素直になることができました。 

同時に、 
「彼に思いやられて当然で、この私が彼を思いやるなんて私らしくない!」という 
凝り固まった恋愛スタイル(=プライド)も、ようやく捨てることができました。 

本書は永久保存し、折を見て読み返すようにします。 
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引用終わり

2012年5月4日金曜日

情報の価値とは

数日前に書いたぼくの記事へのコメントについてどうも気になるので考えていたら、どうやら情報というもののについての基本的なリテラシーが共有されていないようだ、ということに気づいた。

どうやら、情報の価値とは何か、ということについて世の中の多くの人は理解していないらしい。そんなことあるはずない、と思うかもしれないが、そうとしか考えられない。

問題は次のように提示された。ぼくが引用したある記事や文章について、それが正しいのかどうか示せ、と言う人がいる。もっともな意見と思われるだろうか? しかし、ぼくがここで「世界は今年終わる」という文章を引用してきて、これは本当だと思う、と書いたら、それを人は信用するのだろうか?


だが、情報の価値とは、それが真か偽か、ということにあるのではない。情報というものの三つの大事なポイントについて話そう。

一.
情報は人に行動を促すために提供される。

こんなことはあまりに当たり前すぎるのでいちいち学校では教えてくれないし、誰もそんなことを言わないと思う。でも、これを理解しないで生きるというのは、とんでもなく危険だ。

たとえば、地震があって、地震研究所では津波がくると言っている、という情報があるとしよう。この情報の価値は、それが真であるか偽であるか、ということにあるだろうか? もし来たら、やったね本当だった、嘘だったら残念、なのか? 

もう一回繰り返すと、すべての情報は、人の行動のための判断材料を提供することをその目的とする。残念ながら、一年前の大地震では、多くの人が津波予報を聞きながら避難しなかったという。この人たちは、情報の価値を真か偽か、ということにおいていた人たちだ。津波警報という情報の真の価値は、来たら危険なので避難すべき、という行動を促すところにある。避難しなかった人は、それを理解せず、頭の中だけで完結する情報としてこれを受け取った、ということに問題があるのだ。

情報の価値という問題は、あまりに基本的すぎて誰も気がつかない。しかし、それを意識して生きていく必要がある。

二.
では、どのような情報を元に行動するべきか。

次の二つの情報がある。1.原発がメルトダウンした。危険なので30キロ圏内の人は避難するように。2.原発がメルトダウンした。放射性物質がどこまで飛ぶかはわからないのでできるかぎり遠くへ避難すべき。

この場合、どちらの情報をもとに行動するのがよいだろうか。またしても、問題は真か偽かということではないことに注意する必要がある。とくに、2の情報は詳しいことはわからないが、危険だ、言っている。そんな真か偽かわからない情報を流すんじゃあない、という人、この人たちは情報というものの意味を理解していない人たちだ。

この場合の問題は、どちらの情報をもとに行動した方がリスクが少ないか、ということにある。すると、2の情報をもとに行動する方がリスクが少ないのがわかるだろう。30キロという指針はわかりやすいので、往々にして人はこちらの情報を行動のために選んでしまう。しかしこれは間違いだったことが今になってわかっている。当時の政府を攻める人たちは、2の情報をえていたらその通りに行動した人たちなのだろうか?

情報は行動を促すために提供される。しかし、人がいうすべてのことが有意義な情報なのではない。

三.
情報はつねにソースを提示されるべきである。


誰が言ったかわからない意見を引用しておいて、引用元への参照もなく、それで私はこう思う、というようなものは情報として価値がない。ソースを示さないものは、ただの噂だ。

テレビの一つ一つの報道にしても、つねにソースについて言及している。それが警察の発表だったり、あるいはテレビ局自体の情報収集に基づくものであれ、必ずソースを示している。誰誰が、どこそこの機関がこう言っている、というふうに必ず言われているはずだ。ニュースというのは、テレビ局が真だと信じることを流しているのではない。

ゆえに、メディアが本当のことを言わない、と批判するのは正しくない。メディアが手に入れている情報を全部公にしない、ことについては批判できる。しかし、彼らが持っている情報が真か偽か、ということは彼らにはわからない。聞く側もわからない。三度目だが、情報の価値はその真偽ではない。

ゆえに、情報を提供する側としては、ソースを示して誰かが言っていることを紹介すれば、それでよいのである。それ以上、するべきことはないし、するべきでもない。これこれは本当だと思うとか思わないというのは無責任なおしゃべりにすぎない。あまりに大事なのでもう一回言うが、その情報を受けた側がどう行動するのか、それだけが問題なのだ。

ほんとうか嘘かわからない情報を元に行動なんかできない、という人は、自分の命や財産や時間を絶えず危険にさらすことになる。この情報は本当かどうかわからないけれど、リスクを最小限に減らすよう行動するべき、というのが取るべきマインドだ。なぜか、というと、人が生きるということ、それはさまざまな事実の真偽について知っていく、ということではなく、行動していく、ということだからだ。

今年世界が終わるという情報をもとに宇宙に逃げろ、と言っているわけではない。そのへんは常識で判断してほしい。自分にまったく知識がない分野については、人の言うことを聞き比べて、もっとも取るリスクが少ない行動をしていけばよい。自分はここでどれだけリスクを取るべきか避けるべきか、というのは問題によって異なるだろう。

もう一つわかりやすい例をあげておこう。誰々の言うことによるとあなたが密かに思っていたあの子があなたのことを好きらしい、と誰かがあなたに言う。あなたのするべきことは、その真偽を確かめることなのか、それとも二人の関係を育てるために何か行動をはじめることなのか、どちらか。前者を選ぶ人は、いつになっても自らの人生を生き始めないだろう。だが、世の中の大半はそういう人たちであるらしい。

2012年5月3日木曜日

いま科学は健康か

放射能被害については、一定の量以上なら詳しいことがわかっているが、年間100ミリシーベルト以下の場合だとまだよくわからない、ということが言われている。

これは、有意義な結果がまだ確認できていない、ということなのだが、これを利用して、100ミリ以下なら大丈夫だ、と論じる連中がいる。

このエントリーでは、なぜこうした言論が科学的ではないか、そしてなぜこのような言説が生まれてしまうのか、ということを論じる。


去年の原発事故の後、関東で子供の甲状腺異常や、異常な量の鼻血といった事例が数多く報告された。これらは、チェルノブイリにおける被曝の初期症状であると同じである。だが、これらの報告を、そんなことはいつでも起きていることだ、とか、そもそも放射能で甲状腺に異常を引き起こしたり出血はしない、などという連中がいる。そして、こういう連中のよりどころが「科学」なのだ。

知識は、一つの事実から得られるものではない。知識はつねに複数の事実を結びつけることによって得られる。二つの事実を結びつける能力、それが知性である。上の、「科学」を縹渺する連中は、福島とチェルノブイリにおける同様の症状という、二つの事実の関連を消去しようとする。そして、これはとても簡単にできる。

これは、次の三つの方法によってなされる。


1.考えられうる原因の複数性

一つの事実の原因には、つねに複数の理由を与えることができる。これの原因は被曝ではない、ほかにある。確かにこう主張することはできる。これはストレスである云々。

被曝による健康被害よりも、それを気にすることのストレスによる健康被害のほうが大きい、という言説がある。こうした言説を認めると、すべての健康被害は被曝によるものではなく、ストレス性のものとして扱われることになるだろう。

同じような症状を引き起こしえる原因はつねに複数ある。チェルノブイリ後、白ロシアで癌が増えたのはウォッカのせいだ、という者もいる。福島でもし癌被害者が増えても、これと同じことが言われるだろう。そこのお酒が原因だ云々。

この方法は、有意味な統計的事実を無視することに存している。では、統計的事実をきちんと重んじれば、被曝による健康被害を正確に把握できるのかというと、必ずしもそうではない。


2.確率論的変換

被爆被害の統計というのは、この程度の被爆だと数パーセント癌が増える、といったものだ。重要なのは、これは個々の症状の原因を特定するために使うことはできない、ということだ。たとえば被曝後、癌になったとしても、上の「考えられうる原因の複数性」を論拠として、これは被曝が原因ではない、と主張することはつねにできる。

つまり、統計的事実が、単なる確率論上の推測へと変換されてしまうということだ。これが積み重なり、個々の症例がすべて疑われれば、どんなに有意味な数値が統計上出ていても、原因はほかにある、と主張することができてしまう。たとえば、上のウォッカ原因説のように。


3.事実の否認

この方法が最も簡単である。患者本人には明らかにでている症状であるのに、「気のせいだ」としてしまえばよい。こうすればそもそも数値に上がってこない。日本の医療は誠実でありえるかというと、それはきわめて疑わしい。

そもそも、ある病気の認定というのは実はとても不安定なものだ。医者というのは、誰もが知っているわかりすい症状を訴える患者に対してはすぐに病名を診断できるが、聞いたことのない症状だとすぐには診断できない。それどころか、それに対応する病気を知らないために、それは病気ではない、と診断することが往々にしてある。


1.2.3に共通する態度は、ある症状の原因を恣意的に想定したり、あるいは想定しないことによって、すでに起きている複数の事実間の有意味な連関を見ない、ということだ。なぜこういう態度が生じるのか、ということが問題だ。

それは、人間は、事実から原因を探るのではなく、すでに知っている原因をもとに事実について判断することになれているからだ。事実→原因、ではなく、原因→事実への方向に思考する。すると、原因を知らない事実の存在を無視したり否認したりする、ということが起こる。これは、誰もが日常的に体験する思考の特性だと思う。

だが、科学というのは、それがどんな原因かまだわからない事実について、その近接原因を探求する、ということにその真の価値がある。すでに知られている理論をいまある事実に当てはめて理解する、というのは、科学的探求の結果、得られる理論を元にしている。つまり、1.はじめに事実に基づく探求があり、2.次に理論の構築があり、3.さらにそれによる多様な現象の理解への応用がある。3の部分だけを取り出して「科学的」とのたまう人間は、科学とは何かについて一度も考えたことがないのである。

科学的手法により得られた有意味な統計事実を無視して、個々の症例の原因を恣意的に推測する、というのは科学的ではない。しかし、それは科学的な衣装をまというる。たとえば、ストレスによって癌が生じうるのは科学的事実だ。それのデータだけ見せて、被曝による原因が疑われるデータは無視すればよい。すると、この世から被曝による健康被害は存在しなくなる。


つまり、これは科学というより、誠実さの問題なのだ。人がすでに知っているはずの事実が、もう一つの事実と関連していることを認めるのか、そうでないのか。

ぼくの見るところ、こうした誠実さを保った上で、なおかつ上で述べた科学的手法によって、まだ未知のある現象の原因を、事実に直接当たることによって収集して研究し、その結果を公に発言している科学者というのはほとんどいない。彼らはみな、大きな現象の中のある細かな事実と細かな事実の細かな関連について研究し、その成果がかろうじて認められただけで、被曝の影響と健康被害の原因との関連、のような大きなことについて研究したわけではないし、きちんと調べたわけでもない。そういう学者が、すでに知られていることを恣意的に用いて、いまある事実を恣意的に説明している、というが昨今の流行なのだ。というか、そういう連中が健康な科学的精神をそもそも持っているか、ということからして疑わしい。というのも、多くの科学的実験というものは、すでに知られているある現象の原因を、ほかの現象に当てはめて説明した、というのがほとんどだからだ。ここには、真の科学的精神の発露の機会はあまりない。


いまのところ、被曝による被害は、統計上でまず確認できるが、個々の症例の診断において直ちに被曝が原因と特定できるわけではない。だが、統計学的事実というのは偶然の産物ではない。個々の症例の発症は偶然であるが、それがある母集団において一定の割合で確認できる、というのは確かな事実である。

しかし、これをわざとかどうか知らないが取り違えて、原因はほかにありうる、と主張する連中は、往々にしてその根拠となる数値をまったく出してこない。こいつらは、ちっぽけな自己満足と引き替えに他人の健康を売り渡すことを何とも思わない小賢しい人間のクズだ。

科学は、最も有意味に現れている事実の連関を最も重視していくことにその意義がある。ある人の不調の原因は二世代前の祖先の呪いだ、という命題は、有意味な事実の連関を確認できないので、科学的なものたりえない。急増した癌の原因はウォッカだというのは、有意味な事実の連関をより有意味でない事実の連関に意図的に置き換えようとしているので、科学的ではない。

福島とチェルノブイリの事故の後、似たような健康障害が出た、というのは、Aという共通の現象の後、共通のBという結果が得られた、というもので、確認できた二つの事実の相関関係(原発事故のあとの症状が・・・)が、それぞれ相関関係にある(同じ症状である)、ということだ。二つの事実の相関関係だけでは因果関係の十分条件を満たすに過ぎないが、二つの相関関係にそれぞれ相関性がある、というのは必要条件をも満たすのではないだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%96%A2%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%A8%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E9%96%A2%E4%BF%82

広範囲に分布している内部被曝者への実態調査が大幅に遅れたのは、被曝で健康被害は起きないとか、いま起きている症状は被曝が原因とは言えない、という無責任で小賢しい世論の声に後押しされたからだだろう。有意味な事実の連関を把握するためにも、まずは調査が必要であるのに、それをしてこなかった。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2012/02/post_3290.html
日本人は、偽の科学的精神にだまされ、自らの首を絞めたのである。

2012年5月2日水曜日

放射線被害を理解するための5つの区別

放射線による被害、被曝については、最低でも次に挙げる5つの区別をする必要がある。ぼくがネットで見る限り、この区別が全部きちんとできている人は何らかの専門家、アマチュアを問わず、ごく少ない。基本的なことは下で読めるのだが・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E6%9B%9D#.E3.83.9A.E3.83.88.E3.82.AB.E3.82.A6.E5.8A.B9.E6.9E.9C

1.内部被曝と外部被曝

よく、多少の放射線は体にいい、みたいな意見を目にする。これは、ホルミシス効果と呼ばれるもののことだ。参考文献はこれ
ほんとか嘘かはおいておいて、これは外部被曝の場合のお話。プルトニウムが崩壊するときに出すα線は紙一枚で遮断できる、というのもやはり外部被曝の場合。

放射性物質が体内に取り込まれた場合、それを内部被曝と言う。取り込まれた放射性物質はそれが体外に出されるまで、放射線を出し続ける。セシウム137が崩壊して半分になるのにかかかるのが30年。

「従来の放射線被曝の分析では、外部被曝と内部被曝の区別よりも、浴びた放射線の強さ(線量)と障害の関係の解明に主眼が置かれていた。だが最近の研究では、体内に入った放射性微粒子による低線量の放射線に長時間さらされると、遺伝子の修復能力が損なわれ、細胞周期の早い生殖細胞や造血機能(骨髄)、胎児などに障害を生じる可能性が指摘されている」
http://serv.peace.hiroshima-cu.ac.jp/fkiroku/article57.htm

1の要点は、体の外と内は違う、ということ。こんなことは学校で習わなかったという人はいますぐ違いを調べること。参考文献はこれ


2.経口摂取と吸入摂取

どうやって体に取り込まれるか。呼吸によって肺に取り込まれる場合と、食物と一緒に胃や腸に入り込む場合がある。後者の場合、体はウランやセシウムを吸収しないので、比較的早期に排出されると言われている。前者の場合、臓器にたまり、すべて崩壊するまで放射線を出し続ける。放射性物質がすべて崩壊するまでには、だいたい半減期の10倍かかる。

2の要点は、呼吸と飲食は違う、ということ。こんなことは学校で習わなかったという人はいますぐ違いを調べること。参考文献はこれ


3.土壌汚染と空気汚染

関東土壌汚染マップというのが策定されている。これによると、福島はかなり汚染されていることがわかる。
http://konstantin.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/08/30/110830_nouchi.jpg
もちろん、放射性物質がたまりやすい場所とそうでない場所がある。東京は大丈夫かというと、ガンダーセンが東京で採取した土からはいずれも高濃度の汚染が確認された。


土壌汚染などたいしたことはないと考えるかもしれない。確かに、放射性物質の経口摂取は被害が少ないことをすでに述べた。だが、土壌にあるということは、それ以前には空気中にあった、ということだ。ここに空気汚染のシミュレーション動画がある。事故後、どのようにして放射性物質が空気中に拡散していったかがよくわかる。


福島第一発電所では、1号機の原子炉建屋が3月12日午後に水素爆発を起こしたのに続き、14日午前に3号機が水素爆発した。
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-841.html

水素爆発だというのは公式な発表だが、バズビー氏は核爆発だと言っている。これが本当ならとんでもないことだ。もちろん、この情報を疑う人もいる。
http://agora-web.jp/archives/1420660.html




とにかく確かなことは、水素爆発にせよ核爆発にせよ、空気中に放射性物質が拡散されたことだ。「プルトニウムは重いので飛ばない」、と言った人も、「水素爆発でガスになって飛んだりしなければ」と言っていた。つまり、この事故によってセシウムやヨウ素だけでなく、各種プルトニウムも空中に散布されたのである。事実、三十キロ地点の土からもさまざまなプルトニウムが検出されていきている
http://goo.gl/ibBtf
ちなみに、空気汚染についてはこちら。
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E2E4E2E6918DE2E4E3E2E0E2E3E39180EAE2E2E2

農業用地における汚染というのは、そこで撮れる食物によりこれからも汚染が続く、ということ。空気汚染はただちに危険、ということ。
3の要点は、空気と土は違う、ということ。こんなことは学校で習わなかったという人はいますぐ違いを調べること。参考文献はこれ


1.2.3.と合わせると、空気に漂っている放射性物質を吸引摂取した場合の内部被曝が最も怖い、ということがわかる。

それ以外の場合の例を持ち出して、放射能は安全というのは全部正しくない。

すでに触れたように、微量の放射線なら大丈夫という報告がある。危険な域として認識できるのは年間100ミリシーベルトからだ、というがあるところでは通説になっている

ICPRによれば、年間100ミリシーベルトの被曝で高まる発がん率は0.5パー、200人に一人とされている。しかし、この数字は被曝量と発症者ともに過小評価された上での数値ではないか、という指摘がされている。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/2cee0b9f12a2ea7ca58f4a2bc94df78a

考えてみよう。ここに、少ない量だったら健康になる薬がある。しかしある量を超えると癌になる可能性が高まる。それをあなたは取るか。癌というのは、すごい病気である。100ミリ以下だと、癌だけでなくほかの小さな病気や健康障害なんかもまったくない、というのはありえないし非科学的だ。癌になる可能性が高まる、ということは、それよりもっと高い可能性でほかの病気になる可能性が高まる、ということだ。
http://takedanet.com/2011/04/481_ecc3.html

そのうえ、この100ミリという数値は外部被曝のものであり、内部被曝のものではない。ペドカワ効果により、100ミリよりはるかに少ない量で細胞や遺伝子に害を与える、ということが言われている。生命による自己修復機能を計算に入れても、これは無視できない要因だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%82%AB%E3%82%A6%E5%8A%B9%E6%9E%9C
そこで、内部被曝の危険性は外部被曝の600倍と言われている。これが本当なら、内部被曝であれば0.16ミリシーベルトでも有意な形で癌になる危険性が高まるということになる。

たとえば次のような個人による報告がある。

東京都民「検査したら6000ベクレル内部被曝してた」
***************
北海道がんセンターで、ホールボディカウンターを受けてきました。
測定結果、内部被曝していました。セシウム137が、868bq セシウム134が、6373bq
http://alfalfalfa.com/archives/4129002.html
**************

ベクレルは物質における放射能の強さ。1秒間に1つの原子核が崩壊する放射能の量が1 ベクレル。

これを生体の被曝による生物学的影響の大きさの単位であるシーベルトに変換すると、体にどれだけ危険かってのがわかる。詳しくは下のリンク先を参照。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/attach/1314239.htm
次のページでセシウム134の6373ベクレルをシーベルトに換算する
http://panflute.p.u-tokyo.ac.jp/~kyo/dose/

ICPRの基準をもとに計算すると、経口摂取で取り込んでいた場合は0.08ミリ、緩慢な吸入摂取の場合は0.25ミリシーベルトとなった。

まあ経口摂取だったなら健康になっちゃうレベルだ、という人もいるかもしれない。
だが、これは大人の場合だ。子供の場合は摂取シーベルトの値が変わってくる。

4.大人と子供

同じベクレル数を3ヶ月の幼児が緩慢に吸入摂取した場合、0.7ミリシーベルトになる。600倍すると年間で420ミリシーベルト。

子供は大人と同じものを食べ、同じ空気を吸っていたとしても受ける影響が違ってくる。この四つ目の区別が一番大切だ。
子供にとっては、放射性物質の吸引摂取だけでなく、経口摂取も外部被曝も大人よりはるかに大きな影響を与えうる。子供は体が小さく、地面により近くを歩く。とくに免疫系や甲状腺に影響が出やすい。アメリカで新生児が大量に死んでいた、という報告がある。


人工放射線に対して、大人には年間1ミリ、子供には年間0.5ミリでも避けるべきだと言われている。

たとえば、放射線下作業に従事する労働者の労災基準を見てみると、白血病の労災基準の認定が年間5ミリシーベルト。35年間で6人認定。
http://www.47news.jp/CN/201104/CN2011042801000030.html

多発性骨髄腫を発症した人は四年間で70ミリ、年間17.5ミリシーベルトを浴びていた。「放射線下作業に従事する労働者の被曝限度は、電離放射線障害防止規則で、年間50mSv」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1160650626
もし年間100ミリでもOKだというのなら、なぜ5ミリ程度で労災が下りるのだろうか? 


5.人工放射線と自然放射線

さて、自然界には放射性物質があるし、宇宙からも降り注いでいる。これは多いところでは年間10ミリシーベルトになるそうだ。また、食物からもカリウム40という放射性物質を取り込んでいる。
http://www.fepc.or.jp/learn/houshasen/seikatsu/shizenhoushasen/index.html
これを持ち出して、放射能は安全という論をはる輩もいるが、人工放射線と自然放射線は違う。核種の動きが違うからだ。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_H_S1.html

実際、同じ放射性物質であり、同じようにその影響はシーベルトで計られるとは言え、それぞれ異なる影響を与えると考えた方がいい。たとえば、アルファ派と中性子派ではまったく違う。

だが、理論的なことがらを云々してもあまり意味がない。一つ一つの専門分野の知見は狭い。たとえば物理学の知識では人体への被害については語れない。一人の専門家が、放射線とその被害について、すべてを語ることはできない。これは専門家であれば誰もが理解できることのはずだが、それをわざと知らないふりをしている人間が多い。

さらに言えば、年間100ミリシーベルト以下の被曝では「科学的に健康被害が確認できていない」、ということは、「なら安全」、ということとイコールではない。まだわかっていない、ということだ。この二つは大きく違う。これもまた混同されて使われている言い回しだ

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では、何に注目すべきか。事実にである。これには二つある。統計学的な事実と、過去の事例と比較した事実。

たとえば、福島で健康被害が報告されている。これは個々の事例だが、過去の事例と似通っている。





言うまでもないことだが、癌というのはさまざまな症状を伴う。さまざまな体調不良のあと、死ぬのだ。それ以外にも、被曝は多様な症状を生み出す。

なにか症状が出て、国が保障してくれるかというと、それはまずない。

東京の人の体からセシウム134が6373ベクレル出た、というのは、もはや東京は高濃度汚染されている、ということだ。子供にとってはすでに危険なレベルにある。

福島とチェルノブイリは違う、という意見がある。確かにそうだろう。しかし、セシウムやプルトニウムが福島ではチェルノブイリと違う作用を見せるだろうか。子供たちにおきる健康被害はまったく別のものになるとでも言うのだろうか。

2012年5月1日火曜日

情報弱者からいかに抜け出るか

情報弱者、いわゆる「情弱」の原因にはいくつかある。いかにそれを克服し、抜け出すか。それが今日の大きな教育的課題だ。

日々多様な情報がいきかう現代社会では、情報はつねに断片的に提供され、大きな見取り図を持つことが難しい。テレビではなく、新聞、本などにあたることでそれが解決されるかもしれない。だが、対立する様々な情報が飛び交う中、それの真偽を見極めることはますます難しくなっている。

情報は最終的には、自分の行動を導くための判断へと集約される。そして情報には、1.基本的かつ一般的な知識、2.特殊な知識、3.直接行動を促す結論、大まかに分けてこの三つがある。

栄養学で言えば、1は栄養学上の言葉や概念、2はたとえば、炭水化物だけで生きている人の話、3は「よってタンパク質は生存には必要ではない」あるいは「炭水化物だけで生きるのは特殊な人」というような判断。3の情報をもとに日々の行動が決定されていく。

これを踏まえると、情報弱者から抜け出すには以下のような段階を経なくてはならない。


1.その分野における基本的な情報の収集。

放射能でいえば、放射性物質について、測定単位について、放射能による大まかな健康被害予測、などがこれにあたる。
これが一番重要なことだが、多くの人はこの段階さえクリアーしない。

2.個別情報の収集

昨日の日記から例をとれば、鼻血の件がこれに当たる。ここでは事例を収集するのも大事だが、同時に注意するべきこともある。大まかに二つある。

2a.反対意見・反証を多面的に検討

一つ目は、それぞれの特殊な情報は、一つの未確定な情報であって、その情報を肯定する意見も否定する意見も出ているということだ。鼻血の例で言えば、これらはネット上ですでに出ている。これは被曝だという医師の最初の意見、それに対する血液内科医の意見、それに再反対する意見。

http://togetter.com/li/150517
http://togetter.com/li/175317

個別の事例に対する専門家の意見、というのは、一つの特殊な情報であって、1のレベル(一般的な知識)の情報ではない。その情報のレベルをつねに意識しながら情報を得よう。

上の二つの意見からでは最終的な結論は出せないと思うかもしれないが、まだその段階ではないのだ。ただここでは、血液内科医が書いている、放射能はガンマ波とベータ派だけ、ということが正しくない(アルファ派もある)、ということに気がつけばよい。これは1の段階(一般的な知識の収集)で多くの情報を得ていれば気がつけることだ。

さて、一つの情報にはさまざな角度があるので、それについても検証するべし。たとえば鼻血の例だと、そもそも鼻血の大量発生など出ていない、という意見がある。
これを検証するのはちょっと面倒だ。ネット上できるのは、「鼻血」というキーワードがある時期からどれだけ頻繁に使用されるのようになったか、というくらいことだ。もちろん、実際の患者数などの裏付けがとれればベター。

2b.類似事例を探す

この段階でするべきことの二つ目として、違うソースに当たる、というのがある。関東での鼻血、という事例に類似する事例を探せばよい。たとえば、チェルノブイリの子供たちはどうなっているのか、など。

チェルノブイリ小児病棟_01 ~5年目の報告~


ある事例から結論を導くまでには、一つのソースでは足りない。すでに見たように、一つのソースに対しては、それがどのくらい説得力があるかは別にして、反論も反証もでている。それらに対して反論できるかもしれないが、決定的な証拠というのは一つのソースからは出てこない。最低でも三つのソースの裏付けが3に至るためには必要だ。

ただしそれは他人を説得する場合のことだ。自分一人の行動を決定するには二つのソースで十分だろう。

3.判断

1.の段階でえた知識をもとに2.でえた特殊な情報(個々の事例)について判断するのがこの段階。どういう判断がもっとも確からしいのか、という判断を決定する要因は、経験である。

過去に自分が調べ判断した事例というのがあるはずだ。そして、運がよければその判断の可否もすでに知っているかもしれない。そうした経験をもとに、2の情報についての最終判断を下すことになる。過去に正しい判断を多くしてきた人間の判断は経験によりより確からしくなっていくだろうが、そうでない人間の判断はそうではない。

というわけで、1.2.3.のそれぞれの段階において必要な作業と能力は異なる。それらさまざまな過程の総合として一つの判断はある。一人の専門家の意見なんかが絶対に正しいと言えないのは、たとえ1.のある分野についての比較的正確な知識があってもそれを2.に応用できなかったりするからだし、ましてや3の判断へと導く経験数が不足しているからであったりもする。

ある判断について責任をもつのも、その結果を受け取るのも自分だ。

ところで、情報にはいま自分が知らないが大切な情報というのもある。たとえばぼくは最近まで、タンパク質を摂取しないと疲労感を抱く、という栄養学的知識を知らなかった。この程度のことなら、いままで生きてきて普通に耳に入ってきていてもよさそうなものだが、そうではなかった。こういう、欠けている知識を意識して手に入れる、というのが実は一番難しい。当たり前だが。

欠けた知識のない人間というのは決して存在し得ないので、欠けている知識がある、というのは悪いことではない。しかし、それが実生活に直結する知識である場合、それは悪いことだ。これを解決するには次の二つのマインドを持つしかない。

1.日々いろんなことに疑問を持ち、
2.なにか不都合なことや問題があればそれを解決していこうとする意思を持つこと

調べれば情報はある。あとはやる気だ。