2016年1月11日月曜日

最近出たアメリカ系経済の本をよまなくて・・・

最近出た世界史や経済の本をアマゾンでチェックすると、どれも実に適当な議論をしているようで腹が立った。一冊も読んでいないのだけど。

最近はアマゾンのレビューが充実しているので、当該の本をよまなくてもけっこう内容がわかるし、ちゃんと批評もしてくれているのでいい点も悪い点もわかる。なので、よまなくてもその内容がかなりの程度わかるのだ。

いや、本なんてよまないと何もわかんないよ、という人は、いい本を読んでいるのだと思う。とくに古典なんかは読む人によって受け取り方が全然違ってくるので、よまないとわからない。が、最近出た本というのは古典に較べて内容が薄いし議論が一辺倒なので、よまなくてもある程度わかるのだ。いや、最近出た本にも古典レベルの内容のがあるだろ、という人もいるかもしれないが、そんなことはまずないので安心してほしい。

と、言い訳を書いたところで、一冊も読んでいない本の感想を書いていこう。

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『国家はなぜ衰退するのか: 権力・繁栄・貧困の起源』ダロン アセモグル& ジェイムズ A ロビンソン

これ、国家が繁栄するには経済体制が重要という議論を展開している本。「収奪的制度」が選択されている国では経済成長が阻害されて衰退し、「包括的制度」が選択されている国では成長するということ。まあ、これは言葉の定義次第でいくらでもそういうことが言えるだろうし、そう言うこと自体は悪いことではない。

けれども、こうした議論は現代においてのみ当てはまるもので、現代以前には当てはまらない。というのも、近代以前はどこも「収奪的制度」だったわけで、例外は江戸時代の日本くらい。もっとも、本書は江戸時代を「包括的制度」ではなく「収奪的制度」だったとしているらしいが、これは土地に課された税金についてのみ言えること。実際、商業は江戸時代には世界のほかのどの国より栄えていた。

まあそれはいい。そもそも、この本の目的は、「今日の貧富の差はどこに起因しているのか」ということを解き明かすことにあるらしい。だが、上記の議論ではこの問題に半分も応えることはまずできない。歴史的な見地が欠けているからだ。

西洋の元植民地が貧しいのは先進国に簒奪されたからであり、本来の生産能力を奪われて西洋の求める産物のみを生産するように経済が作られたからだ。このくらいのことは誰でも知っていることなので、これをわざわざ無視して議論をするのは一種のプロパンダと言っていいレベルだと思う。おまえらはどんだけ自分らがしたことの罪を認めたがらないんだよ。

が、こういう議論をしている本はこれだけではない。

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エイミー・チュアの『最強国の条件』では、歴史上の最強国家がどれも寛容であり、寛容こそが繁栄の条件であったと議論している。筆者が例に出すのはペルシャ、ローマ、唐、モンゴル帝国、そしてアメリカである。アメリカっていうのが出てくる時点でもううさんくさい。

アメリカが最強なのは経済的繁栄を元にした軍事力が背景にあるのであって、寛容だったからなわけがない。まあ、他国からの亡命者を受け入れたりはしているが、それが繁栄の十分条件ではない。ローマにしても最強だったのは軍事力があったからで、やっていたことは略奪と収奪だった。

まあ、世界史上の大国が寛容だったというのはそのとおりかもしれないが、それは原因と結果を取り違えているとしか思えない。ローマでは新しい植民地は必ず課税された。こんなの誰でも調べれば分かること。

世界史上でほんとーに寛容だったのはいくつかのアラブ系の帝国だが、それについてはあまり触れていないようだ。アラブ世界が寛容だったかというと政治的にアレなんだろう。つまり、この本自体が政治的なもので、経済に関するものではない。

で、レビューにこういうのがあった。
著者の日本に向ける眼差しは寛容とは程遠い、第二大戦前、戦中に連合国がバラまいたプロパガンダから一歩もでていない。 日本は世界制服を企んだ、邪悪な人種差別主義の帝国だそうである、とって付けたように台湾統治は恩情、寛容をしめしたと多少は評価しているが、朝鮮統治にかんしては戦後、韓国の主張する、史上最悪の植民地の丸写しである。 著者は中国系アメリカ人で彼女の日本に対する認識はまさに第二次大戦の戦勝国の独善と中国人の日本に対する憎悪から非常に偏っている。
はい、こういうところで著者の本性というのはモロに出る。アメリカ系の学者の書物というのは、往々にしてプロパガンダが目的になっている。これはその胸糞悪いいい例だ。

が、例はこれだけではない。

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ニーアル ファーガソン『劣化国家』

これは西欧の衰退の原因を探ろうとする本。これもレビューを見る限り、西欧が一時的に豊かになれたのは植民地政策によるものだという歴史的視点が欠けている。これもアメリカ人が書いたものだが、アメリカでは植民地経営の歴史とか教えないんだろうか? 南米ではこれすごいスタンダードな話題なんだが。

レビューにはこうある。
西欧の衰退と新興国の台頭という世界経済の大きなトレンド変化を制度論、公的債務、複雑過ぎる金融制度、法律家の支配、市民社会の衰退等の視点から分析している典型的な西欧の悲観論です。
言わずもがななんだけど、制度が原因じゃないよね。日米や、植民地として簒奪されてきた国が相対的に経済的な地位を高めたから、西欧の経済的な優位性が下がってきたというだけ。

「民主的な制度は全て自分たちが作ったのに、なぜ衰退期に入ったのかという戸惑い」が書かれているみたいなんだけど、こういう意見、すごい典型的なんだよね、欧米人に。「民主主義国家なのになんで衰退するんだ」とか「中国は民主主義じゃないのになんで経済成長するんだ」とか。どー考えても民主主義と経済成長は関係ないだろ。アメリカ人はとくに「民主主義は正義。これですべてに勝つる」みたいに考えていてマジで気持ち悪い。

が、気持ち悪いのはこれだけではない。

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上と同じ著者による『文明: 西洋が覇権をとれた6つの真因』では、衰退する前の200年間西洋が世界を支配することになった6つの理由を書いているらしい。で、その理由がお笑い。
「苛烈な競争心」「科学の発明とそれを主義としたこと」「所有権に基づく選挙で選ばれた政府を持ったこと」「近代医学の発達」「消費社会の形成と生活水準の向上」「プロテスタンティズムによる勤勉と貯蓄」
だって。くっそ笑える。おいおい植民地支配はどこに行ったんだ? いいか? 西洋が世界を支配したのは、古代ローマに習って世界に植民し、現地に国家機構と市場経済をインストールして現地民を半ば奴隷としたこと。また、本国で生活必需品の大量生産を行い、それを植民地に売って大儲けしたこと。さらにその経済活動を支える資本主義があったこと。この3つなの。この著者があげる6つのどれも違う。どうやったらこんな見当違いのことを議論できるんだ?

実際アマゾンのレビューでも、
西洋が覇権をとれた6つの真因というが、6つ全て説得力がなく、無理やり感があった。情報も整理されていなく、非常に読みにくかった。この人の授業を聞いていてハーバードの学生は大丈夫?? こういう本を読むと、日本の学者の方がよほど、きちんとしているし、誠実に学問に取り組んでいる気がします
とか、
このような世界全体を対象とした書なのでやむを得ないことだが、決して厳密な史料の精読に基づいて西洋が優位性を確立する過程が論証がなされているわけではない。あくまでも著者の歴史思想を知るための本である。筆者には、ところどころに垣間見える欧米寄りの視点が気に食わなかった。ヒトラーやスターリンが大量虐殺を行ったことを批判しながら、アメリカの原爆投下が大量虐殺であった点には全く触れず、それに続いた核兵器開発が戦争の抑止につながった点を強調している(377−379頁)のには、気分が悪くなった。
と書かれている。最後の点、まあそうだよね。こういう中身のない本を書くアメリカの学者はみんなこういうタイプ。つまり人種差別主義者にして西欧優位思想の持ち主。

だが、こういうのはこいつだけではない。

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J・ダイヤモンドの『文明崩壊』では、これまで著作で彼が隠してきた(それでも見え隠れしてきたのだけど)人種差別的思想がモロに全開になっている。

あるレビューでは、ここで論じられている江戸時代についての記述の誤りについて逐一指摘して、こうつぶやく
日本に関する部分は少ししかないが、その中でもこれだけ間違いやおかしい部分があると、にわか知識で書いたと思わざるをえない。そうなると本書の他の箇所や全体的な信憑性は疑わしい。全編を通して、どうもおかしい記述や推測・憶測が多くて首をかしげるところがある。
はい、「にわか知識で日本や中国について適当なことを言いたがるアメリカの学者はみな人種差別主義者である」の法則発動の予感がするよね。

レビューには続けてなんとこうある。

それと本文中に頻繁に出てくる、人種差別的な表現や悪趣味な皮肉、自民族中心的な異文化軽視・偏見には辟易させられた。
長々と中国からの外来動物と植物による生態系の破壊を述べた後に「中国に溢れるほどの個体数が存在し、生態系と経済に大きな影響を及ぼしつつ、諸外国へますます数多く輸出されている種は、ホモ・サピエンス、つまり人間だ」と中国人は害虫と同列扱い。
その反面オーストラリアの章では白人による外来種の持ち込みによる生態系の破壊と環境破壊には素朴な望郷心が結果として悪影響になってしまったような同情的で擁護するような記述なのは呆れる。
そもそも章のタイトルが「搾取されるオーストラリア」である。白人による環境破壊はまるで日本、韓国、台湾などの企業がオーストラリアの資源を搾取していることが原因かのような記述なのだ。
特にオーストラリアと日本の間の貿易に対する記述では「経済発展も工業化も遅れた交渉に不慣れな第三国の植民地が先進国と取引する場合」に似ていて「オーストラリアは貴重な資源を気前よく差し出しながら、その代価をほとんど受け取ってないように見える」とまるで日本がかつての欧米が植民地にした悪質な搾取をしているような物言いである。
その上で、先進国の中でも森林面積の割合の少ないオーストラリアが、先進国の中でも森林面積の多い日本に木材を輸出している事は皮肉であると記述しているが、ここでもまた数値を「割合」で記述し事実の逆の記述をしている。
実際のオーストラリアの森林面積は日本よりもはるかに多い1億6440万ヘクタールと、前出の中国に匹敵する森林面積を保有していることがわかる。
これもう決定的な指摘なので長々と引用させてもらった。すごいよね。これだけ日本に敵意をむき出しにして、オーストラリアが搾取されていると言うとか。おまえはどんだけ白人優位史観で生きているんだ。

もうね、これだけ世界的に有名な学者がこういう人間なのかと思うとほんとにめまいがする。


しかもこいつらみんなアメリカのいい大学で教えてたりするんだよ? 経済や社会学学びにアメリカに行くとか絶対やめた方がいいってことハッキリわかんだね。

上のレビューでもあったけど、ほんと日本の学者のほうが良心的だしちゃんと調べてもの書くと思うわ。アメリカ人は英語で書くと世界中にやくされるからなあ。で、それが影響力を持ってしまう。これ、学術書の体裁で書かれているから、ナイーブな人はそこにしこまれているプロパガンダに簡単にやられてしまうと思う。真面目な人ほど人の言うこと真に受けるからね。


ほんとに、こういう最近のアメリカ人が書いた本を読むよりも、日本人が50年前に書いた『合理主義 ヨーロッパと日本』とかを読むほうがずっとベンキョウになると思う

ここでは、西洋が覇権をとった理由についてこう書かれている。レビューから引用する。
「イギリスの木綿その他の商品がはいる前には、現在から見るとひじょうに美術的な価値ある織物を織って、身にまとっていました。綿を畑から取り、糸につむぎ、そして織っていたのです。染料も自分たちの手でつくった。
しかし、機械製品は多量生産ですから、まず第一に、手工業よりもはるかに安価です。
第二に、均質であって、同じ程度のものが、同じようにできています。
したがって、いったんその生活の中へ機械製品が入ってくると、自分たちで作っていた(中略-)ような織物は、完全に駆逐され、崩壊していくことになります。
その結果どういうことになるか。
現地の人々は、原料である綿は自分でつくっている。しかし、もはやそれを自分たちで織って着るわけにはいかなくなった。それは売らねばならない。そしてこんどは、織物としてできあがったものを買わなければならないことになった。この優越したヨーロッパの方法を自分のものにしない限り、この状況は長く続きます。織る人、染める人がなくなり、技術も伝達されなくなりました。
こうして、原料は買ってもらわなくてはならない。製品は売ってもらわなくてはならない。
そうでなければ日常生活を営んでいくことさえできない。これが植民地の人々の追い込まれた姿です」
この段落だけで上にあげた数冊の本の何倍もの価値があると思う。ま、現代のアメリカ人なんかに植民地経営時代の現地のことなんかわかるはずないしな。

しかし、昔ハンチントンの『文明の衝突』が出てきたときにかなり叩かれていたけれど、いま思うとあれは全然まともだよなあ。あ、彼の弟子のフクヤマはクズだったけど。

こうしたアメリカの学者たちがデタラメなのは、欧米ではたいして勉強してなくても、とにかく自分の主張を言うことが賞賛されるからなんだよな。欧米では日本みたいに、「その研究はどこが新しいの?」みたいな質問はまずされない。それはいいことでもあるんだけど、行き過ぎるとまずい。

まあでも、上のようなダメな研究が幅を利かすのは、それ以外の要因があるだろうけどね。言っちゃうと、こういうのは研究の皮をかぶったプロパガンダにすぎない。で、アメリカ全体にそういうのを喜んで世界に発信しようと言う機運があるんだと思う。

こういう、自分に都合のいいように真実を隠して、嘘の学説を流布させようという行為、こういうの中国もよくやってるよね。ただ、中国の場合は信用されないのに対し、アメリカのは信用される可能性がっけこう高い。両者の本質は同じなのに、発言力には雲泥の差がある。まあもともとの言語がもつ発言力の差以前に、アメリカの学者のほうが学問的な衣装をまとうのがはるかにうまいってのはあるけど。

とにかく、アメリカの学者ってだけで世界中の人が無批判に信用しすぎなんだよね。あいつらの根底は、アメリカ最高言いたいだけの人種差別主義者だってことをみんな知っておいたほうがいい。

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追記


似たような話題の本で名著と呼ばれるものは出ているようだ。ポメランツ『大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―』がそれだ。名古屋大出版局というお硬いところから出ているのもいいね。

レビューを見ると
著者ポメランツは、ヨーロッパ中心の世界史の見方を退け、ユーラシアの東西で主要地域の生活水準は1800年ごろまでほぼ同じか、東アジアの方が高かったという。いずれもゆるやかな経済成長をとげ市場も発達していたのだが、それにともなう人口増大の結果、資源となる森林などの生態環境の制約に直面していた。そこから、まずイングランドが、次いで西欧が大きく逸れて独自の径路をたどるようになる、つまり、西欧の発展径路をスタンダードと見るのではなく、ユーラシアの東西で共通していたあり方を本来のものと見て、そこから西欧が「逸脱」したと捉えるのである。そして、西欧が、生態環境の制約を脱してこの径路をたどりはじめた要因を、アメリカ大陸からの資源の収奪に求め、イングランドがまず分岐した理由については、石炭つまり化石燃料が生産の中心地の近くで発見された地理的偶然性にあるとする。その意味で、イングランドや西欧がそれ以前から東アジアなどと比べて特別にすぐれた制度もっていたわけではない(制度が無関係だというわけではないが、「大分岐」を最終的に説明するものではない)という。
そらね。ちゃんとした研究書は普通はこういう結論になるものなんだよな。ま、この本は専門的すぎて退屈そうだけど。

同じ著書の『グローバル経済の誕生: 貿易が作り変えたこの世界』のほうが読み物として面白いみたいね。テーマもほぼ同じだし。

2013年5月16日木曜日

日本文化論 序説


日本人は、世の中の多くのことを説明するときに、よく欧米人が考えだした言説を使う。とたえば大学で欧米の社会理論なんかを勉強して、ではこれを日本に当てはめて考えてみよう、なんてやっている。そのことの変さに気がついている先生は少ない。だが、欧米と日本はぜんぜん違うのだから、欧米で考えられた欧米を説明するための理論を日本に当てはめるのは無理がある。

これに対して、ジャック・アタリも言うように、世界の全ては西洋化され、日本もそうなのだから、あちらの理論も十分に通用する、という人がいるかもしれない。だがそれこそ嘘だ。欧米人は、往々にして、欧米文化こそが世界のモデルとなった文化だと考えがちだ。これは、彼らが一度も中国に行ったことがないからだろう。中国の街の景色、中国人が食べるもの、そのどれも、欧米とは関係ない。中国の都市に立ち並んでいるまったく同じビルの数々、それが西洋なのか。いや、違う。それはいびつで性急な近代化の結果だ。

欧米人におけるこの誤解は、彼らが近代文明と、西洋文明を区別できていないことに起因する。じつは、西洋文明も、近代化の過程において自らがもっていた古い特徴をことごとく失った。だが彼らは、そのことに気づいていない。そのことに気づく機会をもたらす言説を彼らは持っていない。日本では、近代化と西洋化が同時進行で起きたが、これは普遍的なことではない。中国や朝鮮や台湾では、近代化はむしろ日本化を意味した。

でもそれは同じ事だ、という人もいるかもしれない。日本も西洋も同じく近代化したのだから、近代化した社会や文化についての言説は、本質的に共有可能なものだろう。ゆえに、欧米での言説を日本に当てはめるのも無理ではないはずだ。この反論には一理あるかもしれない。しかし、これはぼくの意見だが、欧米人の、自ら自身についての見解というのは、先のアタリの例もそうだが、基本的に筋違いのものが多い。彼らは自らを客観化して見るということが基本的に苦手なので、彼ら自身についての理論が正確なものにならない。必ずしもそのことが理由ではないが、たとえばウェーバーの『プロ倫』なんかは本質的なところで間違っている。ある思想がある民族の精神と行動を作る、というのが彼の主張の根底にあるが、そんなことはありえない。その逆はある。つまり、ある民族の精神や行動が彼らにあった思想を構築する、というのはありえるが、その逆はないのだ。どこからか思想がやってきて、寝ているうちにある民族の行動の仕方を変えるということがあるか。ない。ある思想が一人の行動を変えるということはありうるが、カルバニズムがイギリス人とオラダ人全体に等しく同じように作用しれその行動原理を変えるなんてことがあるはずがない。こんなことは、基本的なことで、証明の必要もないようなことのはずだが、多くの人がその逆をいまだに信じている。

さらに、西洋で生まれた言説を見ているだけでは、日本という驚くべき国の、その特殊性を説明することができない。西洋で生まれた理論は、それが西洋についてのものであれ、またアンチ・西洋的なものであれ、西洋や近代社会一般についての言説という域を出ない。これでは、日本という国を日本たらしめているそのものを説明することはできない。もちろん、おおくの人間が日本論を書いたが、それもすべて、西洋を正当化するために西洋で考えられた観念を、日本に当てはめているだけだ。たとえば、日本は恥の文化というのがある。これは日本に来たこともない人間が言った言葉だ。こんなことを信じる人がいるということだけでも恥だ。そもそも、人と人のあいだの正常な関係を保つための道徳観念をもつのに、神など必要ない。神など信じてなくても、人は殺人など滅多にしない。そんなこともわからない、西洋の自己正当化の言説にどっぷり使った人間が放つ日本についての言説が受け入れられきた歴史こそ、恥なのだ。

日本を固有のひとつの存在として、つまり、日本をひとつの複雑な概念の集合として理解するためには、それ専用の観念がいる。それを見出すには、まず日本を固有の存在として見出すことから始めなくていけない。それが今までできてこなかったということは、人は日本に対して何の驚きも持って来なかったということだ、あるいは、とりわけそういう人たちが日本について語ってきたというわけだ。あるいは、日本を自分の国と比較して貶めるために日本について人は語ってきた。もちろん例外もある。幕末期や明治初期に日本を訪れた外国人たちの日本についての記録は、おおむねこの国に対する好奇心と驚きの気持ちがこもったものだ。日本は当時、まだ誰にも知られていない未知の国で、多くの探検家や冒険家の夢だった。そこには、誰も目にしたことのない独自で高度の文明がある、そう人は信じていた。そして、それはそのとおりだった。そして、それは今でもそうなのだ。

2012年9月10日月曜日

日本サッカーに足りないもの


ここ数ヶ月、ユーロ2012、オリンピック、女子U20W杯と立て続けにサッカーのトーナメントをたくさん見て、すっかりサッカー漬けになってしまった。日本代表の試合も各種たくさん見れた。

で、気になったことがある。男子も女子も、日本人選手はファウルを滅多にしない。男子U23は六試合でファウル数が89、メキシコが同じ試合数で78。あれ、男子だとけっこうというか普通にファウルしてるのか。1試合につき15ってのは少ない方ではない。
http://www.fifa.com/mensolympic/teams/team=1889789/index.html

でも、女子は明らかに少なかった。

女子A代表は六試合でファウル数が42に対し、被ファウル数が85。アメリカが同じ試合数で81だから、ほぼ半分だ。
http://www.fifa.com/u20womensworldcup/teams/team=1888600/index.html

女子U20は六試合でファウル数が31、ドイツが六試合で61だからやはり約半分だ。
http://www.fifa.com/u20womensworldcup/teams/team=1888594/index.html

日本人の女の子はじつにファウルが少ない。とくにU20では一試合につき五つ。統計ミスじゃなければ、こんなのサッカーじゃない、というくらい少ない。


もちろん、ファウルってのは反則だから、しない方がいいにこしたこたぁない。実際、審判も、日本があまりにファウルしないもんだから、相手のプレイに対してきつくファウルを取る、ということがあった。

とくに、グループリーグ中はその傾向が強かった。しかし、決勝トーナメントの、それも後半になると、審判のファウルの取り方がかわってくる。きっと、審判陣は日本の相手にファウルを取りすぎたことを見て、調整してきたのだと思う。ある試合を境にばったりと審判が日本の対戦相手のファウルを取らなくなる。そして、それはだいたいの場合、いきすぎる。

はっきり覚えているのは数日前にあったU20の対ドイツ戦。ユーゲントジャーマンの執拗なタックルにヤングなでしこは苦しめられる。が、明らかにイエローの場面でも審判はイエローはださず、ただのファウルで処理する。同じ選手が明らかに何度もイエローに値するタックルを繰り返しても、やはりイエローは出ず。ここでフランス人の実況は、「審判はFIFAの規定は知っているはずだ。なぜイエローが出ないのか」とまで言っていた。この試合、イエローの数は結局0。

イタリアや韓国じゃあるまいし、ドイツがメキシコ人主審Lucila VENEGASを買収していたとは思えない。彼女は、日本戦では相手についついファウルを出し過ぎてしまうということを念頭におくあまり、あまりに明確なファウルを見過ごす結果になったのだと思う。こういうことは、よくある。

確か2010年の男子W杯でも、決勝トーナメントで同じような審判のジャッジの傾向の反転があったように思う。男子は、数字上はいまは十分な(?)ファウルをするようになったようにも思えるが、ロンドンではやっぱりそうでもなかった。日本男子U23は、明らかにクリーンな戦い方をしていた。これはいいことかもしれないが、運もからむトーナメント戦を勝ちぬくには厳しい。じつに厳しい。

男女問わず、日本の相手はこっちのシャツをつかんだり、後ろから胴体に腕を回して引きずり回したり、セットプレーで相手をこっそり突き飛ばしたり、というようなことは数秒おきにやってくる。で、そういうすべてのプレーに対してファウルが取られるわけではない。とくにペナルティエリア内では。つまり、日本はやられ損だ。

http://www.youtube.com/watch?v=WD7oR7UQDv4&feature=related

上で見られる対談では、外国人が日本のサッカーに足りないのはマリーシアだと言っている。これは実に10年前から言われていることだ。トルシアは日本代表監督として、はじめて選手にマリーシアのやり方を教えていた。それから十年。

Jリーグの特徴は、今でもクリーンなプレーにある。というか、Jではそもそも身体的接触が少ない。激しいあたりも、ファウルぎりぎりの攻防もすくない。全体的に少ないから、ちょっとそういうプレーをすれば一発でファウルを食らうと思う。外国人選手(ピクシーとか)がはじめ日本の審判になじめないのはそのせいもあると思う。



女子の試合を見ていて、この子たちむちゃ上手い、と思ったと同時に、この子たちJでも活躍できるじゃないだろーか、まで思った。身体的接触が少なく、テクニックの上手い選手が活躍できるJだと、田中陽子とか岩渕真奈が出てきたら男子をちんちんにできる。あ、決してJリーグのレベルが低いということを言いたいのではない。Jはリーグアンなんかよりかは絶対上だ。それより、あの子たちが世界レベルでうますぎるって話。しかもかわいいし。若いしかわいい。ま、でも、あれ、試合おわった後にユニフォーム交換しないってのは興ざめ。

2012年9月9日日曜日

ManUtdの香川に何が求められているのか?

サッカーの戦術には、一般的に考えると、どうつなぐか、どう守るか、ペースはどうするか、どこから攻めるか、といった要素の複合によって決定される。で、それぞれの要素については、大まかに二つ選択肢がある。つなぎに関しては、ロングかショート、ペースに関しては早いか遅いか、守備のラインに関しては高いか低いか。攻めについては中央かサイドか。

たとえば、五輪日本代表は、ショート、クイック、ライン高で、フルゾーンプレスのショートカウンターを狙った。これは永井という俊足カウンター要員がいたからできたしはまった。しかし、いったん相手がショート、スロー、ライン低という戦術をとってくると、カウンターができなくなり、日本の戦術は機能しなかった。一つしか戦術をもっていないと、どうしたっていつかは対応されて終わってしまう。

同じことが日本のA代表にも言えるし、ManUtdにも言える。ManUtdはイングランドのチームにありがちな、ロングパス&サイド攻撃という戦術を使っている。つまり、ゴリ押し。これに対して、香川はどちらかというとショートパス&中央突破という戦術にフィットする選手だ。ファーガソン監督は、チームに変化を加えたくて香川を獲得したのであり、そこんところはサポもよく分かっている。というのも、今までのManUtdの試合は面白くないし、ロングパスとサイド一辺倒だけでは、ヨーロッパの強豪には勝てない。

と、こうまとめとる簡単だけれど、ショートパスのいったいどこがすごいのか。これは、ここ十年(あるいは五年)ほどの間に起きたと思われる、サッカーの進化に関する話になってくる。それは、誰もが知るあのチーム、バルセロナによってもたらされた。バルサ以前のサッカーはどうだったか。94年のワールドカップや、ぼくは見ていないけれどEURO2004とかでは、守備的につまんなく戦ったチームがいい成績を収めていた。このころは、理想と現実のギャップ、ということが頻繁に語られ、サッカーとは究極的にはつまんないものかもしれない、とみんなが思い始めていた。

ところが、EURO2008を期に世界に名をとどろかせるようになったスペイン代表やバルセロナは、サッカーにとってまさに福音といえる存在となった。美しく、しかも効率的なサッカー、ということがありえるということを彼らは世界に示した。それは理想と現実の融和だった。そして、いまや、日本の子どもたちだけでなく、あのロングボール一辺倒だったオーストラリアでまで、バルサを手本としたサッカーが模索されるようになってきている。彼らの影響力というのは、サッカーの世界に限っては、いかなる国、権威をも超える。


バルサはショートパス主体の攻撃だ。見れば一目瞭然のその特徴。パスの出してともらい手がめまぐるしく場所をかえながらボールを動かし、チャンスを作る。これが機能するのは、モダンフットにおいて、選手は相手のボール保持者にプレスすることが鉄則としてあるからだ。そのため、ボールを動かせば相手も動く。その動いたところにできたスペースを使えば、またボールがつながっていく。そのことについて、とても詳しく解説したページがある。


これ。ここでは、香川を含めた日本代表が、まるでバルサみたいなサッカーをしていることが解説されている。香川がいたドルトムントのある試合を例に出しながら、pal-9999さんはこう書く

「現在のサッカーのゾーンディフェンスというのは、ボールホルダーにプレスがかかっていることが前提であり、フリーのボールホルダーには誰かが当たりに行こうとする傾向がある。こういった「ボールホルダーに当たりに行こうとするDFの習性」を利用して、最終ラインにいたMFの一人を前に釣り出す。これが彼の狙い。そして、狙い通り、サヒンに当たりにDFが前に出た事でゾーンの間にわずかなスペースが生じているのがわかると思う。ここでボールを受けることができれば、敵DFラインの裏に抜け出せる。香川はこの判断がもの凄く速い。」

これがキモの文章。ボールをエサにして、相手を動かし、相手が動いたことで生まれるわずかなスペースをつく。香川はそれが上手い。

それがどんだけ上手いかというと、日本代表の試合について解説されているところの文章で解説されている。

「これは、相手のDFラインが、ピラミッド型に変形しようとする、その一瞬の隙をついたスプリントで、ピラミッド型に変形しようとすれば、一瞬だが、△の中心から底辺にかけてスペースが生じてしまうのは避けられない。その一瞬を逃さず、走り込んでボールを受けることができれば、フリーで裏に抜け出すことができるのだ。香川がJ2で、そしてブンデスで散々繰り返している動きである。彼は、本当によくサッカーを知っている選手だと思う。この一瞬を逃さない。」

基本DFはフラットに守っているが、DFの前でボールを持った相手がいる場合、誰が一人があたりにいく。そのとき、わずかにあたりに前に出た選手と、少し後ろにいる選手の間に、少しのスペースができる。

そこに香川は入り込んでボールをもらうのがうまい、ということらしい。これはすんごい高度な戦術眼がいることだし、同時にすごいハイレベルなレベルなテクニックがいることだと思う。pal-9999さんはもともとセレッソのファンだったらしく、その時代から香川を見てきているのだと思う。そして、彼の解説は、ドルトムント、日本代表、そしてバルサの試合に至るまですごく深いところをとらえている。これは、日本のサッカーを見ていれば、世界のサッカーのハイレベルな攻防も分かるようになるということだと思う。この現象は、サッカー選手が日本でむちゃくちゃ成功すれば、世界のハイレベルなクラブでも成功しうる、ということと平行の現象だ。これは、いま元セレッソにいた選手が熱いということとも無縁ではない。

この時期の日本代表は、遠藤と香川が機能していたらしく、両者の連動について上のブログではまとめられている。もっとも、遠藤は香川が出てくる前から、うまくパスを使って相手をわずかに引き出す動きがうまかった。このことについて、遠藤自身が語っているので、見てほしい。


このビデオの八分目くらいのところ。ここで、遠藤は左にフリーの選手に出す前に、前の松井に出して、松井が戻したボールを左の選手に走らせて出している。ここで、遠藤がはじめの松井へのパスの効果について解説している内容は、まさにpal-9999さんが何度も解説していることと同じだ。ボールの持ち手にわずかにつられた相手の裏をかいて、三番目の選手にパスを出す。これだ。

2006年のW杯の時、日本の選手は、二人目までの連動はできるが、三人目、四人目動きがついてこない、それができないと厳しい、ということを言っていた。いまの日本代表は、出来不出来はあるかもしれんが、それができている。攻撃が、個人技に頼るものよりも、組織の動きで崩すものになってきている。これが、ここ五年で進化したサッカーの成果だ。


バルサ以降のパスサッカーの基本についてまとめるとこうなる。相手のプレスの動きを利用して、ボールをもっていない味方の選手を一瞬フリーにさせる。と同時に、相手のプレスによってできたスペースを狙う、という動きによって相手を崩す。


このエントリーでは、ドルトムントと日本代表の試合を例に、香川の動きについて解説されている。ここを読むと、ビルドアップがいかに複雑に構築されているかが分かる。ぼくはサッカーの試合をみていてもそんなことはまったくわかんないので、この人は本当にすごいと思う。

が、2ちゃんを見ていると、香川はバックパスが多いからだめ、みたいな意見が多かった。これは、多くの人が、まだサッカーの戦術が変化したことを理解していないのだと思う。もし、常に前にパスを出すしか攻撃の方法がないのであれば、相手の組織的な守備にはまず勝てない。かつての日本代表がそうだった。2006年のW杯では、中田ヒデが執拗に相手の裏を狙ったパスを出していたが、ことごとくつながっていなかった。これは、このときの日本代表が、いまのフットで知られてきているパス回しによる崩しを知らなかったからだと思う。実際、攻撃に関しては個々の能力による突破しかなかった。これは、日本だけでなく、当時の世界的な傾向でもあった思う。


かつてバックパスがあくとされた時代があった。それは、ひたすら前へ前へとボールを運ぶしか攻撃の方法を知らなかった時代の話だ。いまのフットボールでは、バックパスも攻めの一つの過程の一つだ。誰かのブログで、ヒデ世代のときの日本代表のバックパスは、攻めあぐねて選択肢がないときのものだったが、いまの日本代表の遠藤のバックパスは、それでも攻めの流れがとぎれない印象を受ける、と書いていた。これはすごく正しい。遠藤はパスの出し手として、香川はパスの受け手として、ショートパスによる崩しのキーパーソンたり得る選手なわけだ。

ただ、いまのManUtdが、ドルトムントやこの時の日本代表みたく、組織的な動きによる崩しをしているかというと、そんなことはない。これができるには、選手全員がイメージを共有しないといけない。しかし、ファーガソン監督は、細かく戦術を教えるというよりかは、いい選手をとってきて働かせているだけのように思える。それがイギリス流なのかもしれんが、それでは香川の活躍には自然と限界が来る。彼は一人で突破したりする選手ではないからだ。

というわけで、以上のことを念頭に置いてManUtdの試合を見ていくと、すごく面白そうだ。あるいは、ああー香川フィットしてないよー、ルーニー早く戻ってきてーと、余計にイライラすることになるかもしれない。そこがまたサッカーの面白いところだと思う。

ただ理解しておきたいのは、香川がイギリスで通用するかということが問題なのではなく、ここ五年で進化したフットボールの体現者として、彼がManUtdでそれを実践し普及できるか、ということが問題だと言うこと。彼がやるフットボールは、実はたいがいのイギリス人選手より進んでいるのだ。日本の選手が海外で通用するかどうかではなく、彼のモダンなフットが、いまだ古くさいサッカーをしているチームを変えられるかどうかが問題なわけだ。日本人はいつも欧米を手本にしてきて、手本がなくなるとパニックになってしまう。しかし、今や、日本人が世界に手本を示す時代になった。そのことに、多くの日本人はまだ気がついていない。

2012年8月10日金曜日

なぜ日本はメキシコに勝てなかったのか?

ロンドンオリンピックの準決勝、日本対メキシコ戦は1-3でメキシコの勝利に終わった。この試合についてはすでにいろいろなことが書かれている。なかでもpal-9999さんの文章は明快だ。
http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20120809/p1

日本は一点目とてもいい形を作って点を取ったが、足が止まり負けた。ぼくが見始めたのは日本の足が止まってからだったが、確かにほんの数秒見ただけでこりゃあだめだと思った。メキシコに同点に追いつかれた時点で、勝てる気が全くしなくなったので見るのをやめた。あれだけ動けないで勝てるということは絶対無い、そう確信させるような試合ぶりだった。実際、二点目はちょんぼからやられた。普通ならあんなミスはありえないというようなミスだった。それもこれも、連戦の疲れのせいだろう。

メキシコ相手には練習試合で勝っている。なので、格上の対戦なので足がすくんだとか、準決勝まで来たので満足していたとか、そういう理由で動けなかったのではないだろう。やはり、ハイプレスで連戦してきたことからの疲れが来たのだと思う。日本が負けたのは必然だっただろう。

日本の敗戦は必然、というのには理由がある。日本は、一戦目から全力でいかなければならなかったために、どうしてもだんだんとコンディションが下がってくる。が、ホンジュラス戦を除いて、どの試合も似たような戦術で、つまり消耗する戦術で戦わなければならなかった、というところに問題があった。つまり、日本は連戦ができるような戦術を持っていなかった。それは、日本はそもそも連戦を勝ち抜くための戦略を持ってオリンピックに臨んでいなかった、ということだ。

戦略とは、オルタナティブな戦術のほか、手を抜く試合で手を抜くとか、控えの選手を出しても力が落ちないだけの選手層の厚みを持つとか、そういうのをすべて含める。でも、トーナメントで延々と勝ち抜くための戦略を持つ、ということはそれだけ余裕があるチームでないとできない。何度も決勝までたどり着いているようなチームや国がそれだけの余裕を持てるが、36年ぶりの銅メダルを狙う国にはそういう余裕はない。

日本の女子サッカーが決勝までいけたのは、以前W杯で優勝した経験があるからだ。その経験があるから、短期の連戦となるこういうカップでどう戦えばいいかを知っている。選手にも、優勝を前にして臆さないだけのメンタリティーがある。

要するに、男子と女子の差は、経験であり、歴史だ。それが決勝までいけるか、いけないか、の差になった。監督や選手の能力の問題ではなく、そういう経験をつんでいるかいないか、の差である。トーナメントで勝ち抜いた経験が、戦術だけではなく戦略を生む。もしそういう経験が無ければ、体当たりで臨むしかない。メキシコ戦はぐだぐだだったが、それでも男子サッカーはよくやった。



2012年8月7日火曜日

さかなクンに学ぶいじめをなくす方法

さかなクンさん(以降敬称省略)がいじめについて書いたすばらしい文章がある。短いので全文引用してみよう。

中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。
 でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
 広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
 中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。
 ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。
(朝日新聞2006年12月2日掲載)
http://www.asahi.com/edu/ijime/sakanakun.html


これはとてもよく書けた文章で、簡潔に見事に問題点をまとめていて、しかも実感もこもっている。さかなクンは何度も推敲してこの文章を書いたのだと思う。

さて、この中に、いじめについての解決策が提示されている。それは、一般に言われている、いじめ問題への対策とはまるっきり違う。一般には、子供に命の大切さを教えるのだの、教育委員会改革だの、セーフティネットを作るだの、いろいろと言われている。そのどれもが不可能か、時間がかかりすぎるものばかりだ。

たとえば、子供に命の大切さを教えるということ、それは端的に無理だ。ものごとには、教えることができるものと、自ら学ばなければならないものがある。命の大切さなどというものは、教えられるものではなく、学ぶことしかできないものだ。よってこれはいじめ問題の解決策とはならない。

上の文章の中で、魚さえも狭いところに閉じ込めるといじめだす、というくだりがある。いじめられっこを助けても、ほかの魚がいじめられる。これはさかなクンならでは見事な観察眼だと思う。ここで重要なのは二点ある。第一に、いじめとは、自然に起こりうるものであるということ。いじめが起こりうる環境というのは自然界にはあまりないかもしれないが、動物でもある環境下ではいじめをする。動物までもが自然にすることを、人間が抑止できる、ということはありえない。よって、ある環境下でいじめが起きるというのはいわば必然であり、これを外部から止めることはできない。

第二点は、狭いところに閉じ込めるといじめが起きる、ことが観察されていることだ。これは先ほど書いた、「ある環境下では」ということの意味だ。つまり、問題は環境にあるのであって、構成員にはない。魚一匹一匹は善でも悪でも、命の大切さを知っているわけでも知らないわけでもない。それに関係なく、狭いところにある一定の人数が閉じ込められると、いじめは起きるのだ。これは人間でも同じ。ゆえに、いじめをなくすには、環境を変えればいい。

具体的には、学校のクラス制をまずなくす。科目ごとに違うメンバーで授業を受けるようにして、同じメンバーが固定しないようにする。これだけでいじめはほとんどなくなると思う。これは、学年の人数が多い学校では特に効果があるだろう。それでもいじめが起きるのなら、半年ごとに学校を変えられる、などの自由を生徒に与えればいい。日本では、アメリカみたいな人種差別によるいじめは少ないと思うので、学校でいつも顔をあわすメンバーを多少流動的にするだけで大きな効果が出るはずだ。

詳しくは知らないけれど、欧米の学校にはもともと決まった学級などないのではないだろうか? アメリカ映画なんかの高校とかでは、いつも通路にロッカーがあるが、あれは決まった教室というのがないので、私物をロッカーに入れるしかないからだと思う。それでもアメリカでいじめがあるのは、あそこがそういう国だからだ。といっても、アメリカでのいじめと日本でのいじめは相当質が違うだろうけれど。

問題の解決には、根本のところを変えないといけない。対処療法というのは効果が薄い。理系では常識の考え方だが、ある効果や結果の原因は個々の要素にはなく、関係にある。いじめの原因は、「いまどきの子ども」なのではなく、そうした関係を生み出す環境にある。それを変えるだけで、問題はかなり解消されるだろう。

2012年7月10日火曜日

フランスという国はもうダメ

フランスではこないだ選挙があって大統領が替わった。この国での大統領は日本の天皇と首相なんかより偉いらしく、この国の象徴かつ最高権力者である。

下の記事では、今回の選挙ではサルコジ対オランドが争点なのではなく、妥当かつありうる政権vs極左・極右が争点だったという。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20120424/231362/?P=1

これはどういうことかというと、多くの国民がいまのフランスに限界を感じている、ということだ。失業率は増え続け、物価は上がり続け、社会保障はカットされていく。そういう国で社会不安が広がるのは無理もない。結果どうなるか。

フランスは内向きになった、ということがよく言われるし、長くフランスに住んでいる人ほどそれを感じていると思う。たとえば、パリ大学では、外国人の入学を規制しろとフランス人の学生がマニフェステーションをしたらしい。仕事を持っている外国人は、それがどんな仕事でもvisaを手に入れるのが難しくなり、帰国せざるをえなくなっている。

これは、フランスだけの動きではなく、西ヨーロッパ全体で起きている。イギリスでは、入管で、労働ヴィザによる入国でない外国人が、労働目的で来ているとわかると入国を拒否する。今回のオリンピックでも選手やスタッフなどがイギリスに残って働かないように対策を取っている。

外国人によって仕事を取られるという恐怖、これがいまの西欧を支配しているわけだ。その結果。外国人にしかできない仕事をしている者でも閉め出されてきている。

ヨーロッパに民主主義が根付いているというのはまあ幻想だ。大統領は強権を持ち、異論を握りつぶす。民衆は政治のことも経済のことも理解せず、安易な選択を選ぶ。フランスがそもそも外国人の締め出しをはじめたのは、二回前の選挙の時に極右のルペンが最終候補にまで残って、主流派が右翼の取り込みに走ったからだ。

その結果起こることは、まだ誰も想像していないようだ。しかし、もし日本が幕末に開国せず、外国人排斥を続けたらどうなっただろうか。トルコ帝国が栄えたのは領内の優秀なイラン人を活用したからだ。

外国人がいるということは、その国の人間の雇用を奪うということではなく、外国人によって新たな雇用が生まれる、ということだ。仕事を作るのは人で、雇用はもともとアプリオリに存在するものではない。いまのヨーロッパ人は、高校などで経済学を習っているにもかかわらず、こうした経済の最も基本的なことを理解していない。

彼らは、雇用とはもうそこにあって増えも減りもしない、と考えているようだ。恐ろしいことに、この考えはただの夢想に終わらない。なぜなら、彼らはこの考えを元に社会のシステムを作り、結果として社会を彼らが考えているような誤ったシステムに染め上げてしまうからだ。ドイツはともかく、いまのフランスは新たな産業も企業も起こらず、というかそれを起こすような体制になっておらず、社会として緩やかな死に向かっている。

だが、経済的な衰退だけが外国人排斥によってもたらされるのではない。19世紀以降、ヨーロッパは世界のモデルだった。ヨーロッパで最新のものを学び、それを日本に持ち帰る、というのが日本の進歩にとって必要だった時代が長らくあった。もはやただの意味の無い儀式になっているが、いまでも官僚がパリに留学したりする(彼らが講義についていけるほどのフランス語力をもっているわけではない)。もっとも、いまの多くの日本人はヨーロッパの進んだ文明を見習いにくるというよりも、より文化的な、料理や音楽などのために来るようになってきてはいる。たとえば、フランスの一流レストランで日本人がいないところはない。

いまのヨーロッパは、そうした、文明・文化的中心地としての地位を、目に見えないところでじわじわ進行している外国人排斥運動によって捨てようとしている。それは、まるで自らの愚かさに自らをどっぷりとつけこむようなものだ。しかもこれは、政治の次元で起こっているのではなく、国民の次元で起こっている。そうなったとき、もう誰もその国を救う人はいないし、出てこない。