十進法ってのは、人間の指が十本あったから思いつかれたものらしい。という説明を聞いてなるほど、というよりかは、本当か?と思った。
だったら、十二進法とかはどうやって思いつかれたというのか?
と思っていたら、次のような説明を見て、腑に落ちた。
**************************
十進法を世界で最初に考え出し、その使用を提唱したのはベルギーの商人シモン・ステヴィン(1548~1620年)です。
ステヴィンは、当代きっての軍事的天才、オラ二エ公ナッサウのマウリッツ(1567~1625年)のお抱え教師で『築城術』(1594年)を著わしたり、コペルニクスを(ガリレオに先んじて)支持する立場の本を著わした(1608年)ほか、遠近法の論文、力学の手引書、航海術の教科書、経緯測定法の教科書、船の位置を常に把握するための斜航線操舵法の改良案、さらに、『平均律』音階を利用した音楽調律理論の本、力の平行四辺形に関する独自の理論を応用した機械仕掛けの焼肉用鉄串の設計図を作ったり、等々天才と呼ぶに相応しい人だったのです。
1785年にジェームズ・マディスンは『それぞれが、違う言語で話すという不便さに次ぐものは、便宜から作られた異なる度量衡を使う不便さだ』と述べていることからも分かるように、科学者が、お互いの実験を確かめるのに役立つ国際語としての数学用語には、数を最小単位に分割し、それを表す簡単な方法が昔から必要とされていました。
ステヴィンの発明はあまりにも単純で、そんな発明が必要だったとは信じがたいほどのものだったのです。プランタンがライデンで出版した36ページの小冊子『十分の一』(1585年)の中でステヴィンは、十進法を提唱しています。1608年に出た英語版で『十進(デシマル)』という言葉が初めて英語に導入されました。
それまでの分数の取り扱いは厄介だったのです。ステヴィンの解決法は、分数の単位を全部整数として扱うというものでした。例えば、4と100分の29という数字があるとします。これを簡単に100分の1という数字が429個あるものとすると考えてはどうかとステヴィンは言ったのです。与えられた数字を一度その最小単位に還元して、整数も分数も、その単位の倍数として扱う。実験するものは、今や、全ての数をまとめて処理できるようになりました。
日常生活の面では、商人と客のもめごとや、銀行家と借り手の問題をいかに簡単なものにするかをステヴィンは示しました。ステヴィンは『小数』を用いることが、測量にも、布地や葡萄樽を計るときにも、天文学者や貨幣鋳造者の仕事にも利点となることを示しました。そして、兵士を10人、100人、1000人といった単位にわけることの利を説きました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1486284.html
**************************
ここで書かれていることは、十進法の確立、というよりは「小数における十進法の導入」の問題である。そして、小数において十進法が導入されたのはヨーロッパが最初ではなく、むしろ遅れていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%95%B0
ただステヴィンの解決法は、小数の位に桁の名前を必要としないものなので、これで一気に西洋数学は中国圏より先に進むことになった・・・んだと思う。きっと。
なにかを数えるときに、場合場合により十進法だったり十二進法だったり二十進法だったり、というのは、とくに人間の指とか関節が起源でなくてもありえることだと思う。
http://www2m.biglobe.ne.jp/%257Em-souda/mysouda/math/smith/chapter1/math21.htm
問題は、それを数える原理として徹底できるか、というところにある。そういう意味では、やはりステヴィンの解決法は画期的だったわけだ。これが17世紀初頭。
英語でBinaryという二進法の発想は、やはり 17世紀初頭にF・ベーコンによって提唱されている。
******************************
1605年、フランシス・ベーコンはアルファベットの文字を二進数字の並びで表す体系を論じ、任意の無作為なテキストで微かに判別可能なフォントの変化に符号化できるとした。二進符号化の一般理論として彼が指摘した重要な点は、同じ方法をあらゆる物に適用できるという点であり、「2種類の異なる状態をそれらの物で表現できればよく、鐘、トランペット、光、松明、マスケット銃など同様の性質があればどんなものでもよい」とした。これをベーコンの暗号と呼ぶ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%80%B2%E6%B3%95
******************************
『学問の進歩』か・・・。この考え方は、面白いし、現代的だ。Dictionary of the History of Ideasで昔読んだことがあるけれど、古代から数字が万物に割りふられている、という考えがあったらしい。
http://xtf.lib.virginia.edu/xtf/view?docId=DicHist/uvaBook/tei/DicHist3.xml;chunk.id=dv3-50;toc.depth=1;toc.id=dv3-50;brand=default
でもベーコンのこの考えは、もの自体に数が割り振られているのではなくて、ものの状態、つまり、ONであるかOFFであるか、とかに1と2の数字が割りふられうる、というもの。これはとっても近代的な考え方だ。
ライプニッツが二進法を考えたのは、こういう思想的流れのなかにある。
******************************
数学的に二進法を確立したのは17世紀のゴットフリート・ライプニッツで、"Explication de l'Arithmétique Binaire" という論文も発表している。ライプニッツは現代の二進法と同じく、1 と 0 を使って二進法を表した。ライプニッツはシノファイル(親中家)でもあり、後に「易経」を知って、その六十四卦に 0 から 11111 までの二進数を対応させ、彼の賞賛してきた中国の哲学的数学の偉大な成果の証拠だとした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%80%B2%E6%B3%95
******************************
ライプニッツによる二進法の確立と、ベーコンによるその応用方(応用法が先に考えられた)を合わせれば、コンピューターが生まれる。電子計算機は、信号のオンとオフとの状態を、二進法に翻訳することによって生まれた。
数を数える、という行為は、単純だが、とても奥が深い。
2012年4月8日日曜日
2012年4月7日土曜日
80年代の芸術的なゲーム Deus Ex Machina
ぼくは『死ぬまでに1001』シリーズが好きで映画のやつとか音楽のやつとかを見るのが好きなのだけど、最近、『死ぬまでにやりたいヴィデオゲーム1001』というシリーズ最新作を買ってみた。
見るとよくできていて、40年間のヴィデオゲームの歴史がよくわかる。アメリカのゲーマーが『マザー』や『スーパーマリオ2』なんかを長い間プレイできなかった、みたいなことも悔しそうに書いてあって日本人としてなんだか嬉しい。
80年代のファミコン時代は確かにゲームの黄金期で、コンピューターで実現可能なさまざまなゲームを多くの人が開発していった。クソゲーも多かったけれど、今みたいなお金もうけのための手抜きクソゲーが多いのではなくて、アイデアレベルのクソゲーが多かった。それはとりもなおさず、業界の活気の結果としてのクソゲーだった。
ぼくは新しいメディアが誕生し、成長していった時期にちょうど居合わせたことを幸運に思う。それは人類史上、画期的なことだった。
が、一つ悔やまれることは、当時パソコンを持っていなかったので、当時のパソコンゲームはぜんぜんプレイしていないということだ。パソコンゲーム雑誌なんかを見て、海外で開発されている突飛なゲームをうらやむ毎日だった。いまのパソコンゲームは高度になったが、そこからは当時のような驚きってのはえられない。
さて、『死ぬまでにやりたいヴィデオゲーム1001』を見ていて、ぼくが夢に見ていた(もう思い出せない)不思議な海外ゲーのどれをも超える存在がすでに80年代に生まれていたことを知った。
それはDeus Ex Machina
これはゲームというより、一つのコンセプトアルバムのような存在で、買うとゲームと音楽テープがついてきたらしい。で、ゲームをしながらテープをかける、というか、テープをかけながらゲームしたらしい。上のヴイデオでは上手くシンクロさせられている。
テーマは、コンピューター化された社会で誕生から管理されている人間の一生。DNA段階から死ぬところまでのミュ-タントの一生を、プレイヤーはインキュベーターとして守るという話。最初の方でドット絵で描かれたベイビーがでてくるけれど、視覚的にけっこう強烈だ。
まずすごいのは音楽で、ぼくはこれを聞いてLaurie Andersonを連想した。当時の実験音楽の雰囲気が満ちている。実際の音楽の担当はIan Duryというニューウェーブ音楽の人。まあぼくも知らなかったけど、70年代後半にいい音楽を作っていた人らしい。
声はドクター・フーの人で、シェイクスピアなどからの引用などを読んでいるらしい。
見ればわかるけれど、この「ゲーム」にゲーム性はあまりない。これはゲームというよりは、テーマを持ったインタラクティブな映像アートだ。あまり詳しくはないから確かなことは言えないけれど、これはいま現在のメディア芸術のレベルをはるかに超えているように思える。
少なくともぼくが東京にいたときにメディア芸術祭とかで見れた、コンピューターによるインタラクティブなインスタレーションってやつの多くは、映像や光や音の発生や変化をこちらの動きや反応によって楽しむ、というもので、そこにテーマはなかった。なんか原始的なことをして喜んでいる、という感じ。
ところがこのゲームは、オーウェル的な設定と物語がある。それを(ある程度)インタラクティブな映像表現として体験させるというとこまで行っている。このアイデアをそのままに、現代のもっと高度な機器で立体的かつ身体的なメディアアートにすれば、それだけで十分最先端のものになりそうだ。
80年代にすでにこのレベルのことを考え、実現していた、というだけでも衝撃的だ。当時先端の映像表現と、先端のお話、先端の音楽、そして先端の技術(ヴィデオゲーム)。商品としては全然売れなかったらしいけれど、これを80年代に組み合わせてみようと思った、というのはちょっと異常な創造性ではないか。
見るとよくできていて、40年間のヴィデオゲームの歴史がよくわかる。アメリカのゲーマーが『マザー』や『スーパーマリオ2』なんかを長い間プレイできなかった、みたいなことも悔しそうに書いてあって日本人としてなんだか嬉しい。
80年代のファミコン時代は確かにゲームの黄金期で、コンピューターで実現可能なさまざまなゲームを多くの人が開発していった。クソゲーも多かったけれど、今みたいなお金もうけのための手抜きクソゲーが多いのではなくて、アイデアレベルのクソゲーが多かった。それはとりもなおさず、業界の活気の結果としてのクソゲーだった。
ぼくは新しいメディアが誕生し、成長していった時期にちょうど居合わせたことを幸運に思う。それは人類史上、画期的なことだった。
が、一つ悔やまれることは、当時パソコンを持っていなかったので、当時のパソコンゲームはぜんぜんプレイしていないということだ。パソコンゲーム雑誌なんかを見て、海外で開発されている突飛なゲームをうらやむ毎日だった。いまのパソコンゲームは高度になったが、そこからは当時のような驚きってのはえられない。
さて、『死ぬまでにやりたいヴィデオゲーム1001』を見ていて、ぼくが夢に見ていた(もう思い出せない)不思議な海外ゲーのどれをも超える存在がすでに80年代に生まれていたことを知った。
それはDeus Ex Machina
これはゲームというより、一つのコンセプトアルバムのような存在で、買うとゲームと音楽テープがついてきたらしい。で、ゲームをしながらテープをかける、というか、テープをかけながらゲームしたらしい。上のヴイデオでは上手くシンクロさせられている。
テーマは、コンピューター化された社会で誕生から管理されている人間の一生。DNA段階から死ぬところまでのミュ-タントの一生を、プレイヤーはインキュベーターとして守るという話。最初の方でドット絵で描かれたベイビーがでてくるけれど、視覚的にけっこう強烈だ。
まずすごいのは音楽で、ぼくはこれを聞いてLaurie Andersonを連想した。当時の実験音楽の雰囲気が満ちている。実際の音楽の担当はIan Duryというニューウェーブ音楽の人。まあぼくも知らなかったけど、70年代後半にいい音楽を作っていた人らしい。
声はドクター・フーの人で、シェイクスピアなどからの引用などを読んでいるらしい。
見ればわかるけれど、この「ゲーム」にゲーム性はあまりない。これはゲームというよりは、テーマを持ったインタラクティブな映像アートだ。あまり詳しくはないから確かなことは言えないけれど、これはいま現在のメディア芸術のレベルをはるかに超えているように思える。
80年代にすでにこのレベルのことを考え、実現していた、というだけでも衝撃的だ。当時先端の映像表現と、先端のお話、先端の音楽、そして先端の技術(ヴィデオゲーム)。商品としては全然売れなかったらしいけれど、これを80年代に組み合わせてみようと思った、というのはちょっと異常な創造性ではないか。
2012年4月6日金曜日
若いときに感性が豊かなのは本当か
原理的には、人ができることには二つしかない。感じることと学ぶことである。人は感じ、学ぶ生き物である。
学ぶってことは学習することだけれど、これと「成長する」ことは別だ。酒の味を学んで酒乱になるかもしれない。学ぶこととは、むしろ習慣をつけることである。
ある感覚、感情を抱き、その体験をもとに次の行動を決めるようになる。それが学習することだ。要するに、感覚と記憶が人間の二大機能なのだ。
ところで最近、自分が今まで生きてきて、人が体験しうるあらゆる感情や感覚をもう味わった、という気がする。学習することはまだまだあるかもしれないが、アトム的な要素である個々の感覚や感情で体験したことがない、というのはないだろう。
自分で直接に体験したことに加え、映画や本を通じて体験した感覚もたくさんある。擬似的な感覚というのはない。想像されたものでなければ、感じられた感覚というのはすべてリアルなものだ。それを強く体験すれば、感情もまた味わえる。たとえば『プライベート・ライアン』を見てほんとに戦争の恐怖を感じれば、そこにいた兵士の感情も幾分かは知ることができる。感情もそれが想像されたのでなければ、やはりすべてリアルだ。
となると、もう新しい体験はないのだろうか。そんなことはない。感覚や感情というのは組み合わせられるものだ。たとえば、にがいとすっぱいとかいう感覚は、それぞれ別個に体験したことがあっても、同時にはないかもしれない。同時に二つの味がすればそれは新しい体験となる。可笑しいと怖いとかいう感情も、それ単体ではありふれているけれど、組み合わせられればやはり新しい体験となる。
ほかには、同じ感覚や感情でも、体験する場が違うとそれは新しい体験となる。たとえばスポーツをしていてはらはらしたことがあっても、人のスピーチを聞いていてはらはらしたことはないかもしれない。縁側でぽかぽかしたことはあっても、ダンスを見ていてぽかぽかしたことはないかもしれない。それを感じる場が違えば、それと今まで同じ感情を体験していたとしても、新しいセンセーションを感じることになる。
同じ感覚や感情の違うバリエーションというのもある。あんぱんの甘さとおはぎの甘さは少し違う。でも、はじめて人がバナナを食べたときに驚きながら感じた甘さと、そのあとメロンを食べたときに感じる甘さでは、前者のほうがより強烈だっただろう。なんでも初めてというのは強烈だ。
いまぼくは、アデルやブライト・アイズを聞いて感動するけれど、もしこれをニール・ヤングやボブ・ディランを聞く前に聞いていてとしたら、この人たちはぼくにとって神になっていただろうと思う。もちろん、最近のアーティストの音楽を聴いておぼえる感動ってのは、質としては若いときにレナード・コーエンを聞いたときのそれと劣るわけではない。でも、それはぼくにとってはすでに感じたことのバリエーションの一つなのであって、ファーストインパクトの驚きを与えはしない。
若いときには「感性」が豊かだ、ということがよく言われるが、これは嘘だ。若いときには感性が豊かでいろんなことに感じていた、というのは、要するにファーストインパクトの強烈さをいろんなことに感じていた、というだけである。こういうセリフを言う人間は、ほんとは自分の「感性」を育ててこなかったのだ。
実際は、人はいろんな感覚や感情を味わえば味わうほど、その区別が細かくつくようになる。感覚の鋭さに関しては生まれつきで決定されている面もあるだろうが、感情に関してはそういうことはない。人は多くの体験をすればするほど、より多くの感情のバリエーションを持つようになっていく。つまり、記憶を蓄えれば蓄えるほど、より「繊細な」感情を持つようになる。それも学ぶということだ。
2012年3月16日金曜日
今さらだけどスティーブ・ジョブスはすごかった
今日、ipadの新型が発売されたと聞いてお店に行ってみたら、おいてなかった。なぜだろうか。
ここが田舎なのか。 しかし、ネットで見ても、発売されたのは「ipadの新型」であって、ipad3ではない。わけわかんない。さらに新型がでたらどうするんだろうか? FinalFantasyの新型とか聞いても、それが14なのか15なのかもうわかんないように、ナンバリングというか、名前をつけるのは大事なことだと思う。スティーブ・ジョブズが生きていたらそんなことを許しただろうか?
さて、彼のこの演説を久々に見直して、やっぱり彼はすごいと思った。なにがすごいかって、彼は経営者である。であるからには、キャッシュフローのやりくりとか、効果的な人の雇い方、いかに人を上手く使うかとか、いかにして売れる新製品を開発するか、とか、お金出して聞きたいっていう人がたくさんいるような話題を、彼はいくらでも話すことができる。
んが、彼はそういう話をいっさいしなかった。それで、彼の人生を決定づけた三つのことについてだけ話している。それで十分すごい話だっていうこと自体がすごいことなんだけど、要するに、ものすごい大きなことについてしか話していない。こういう次元に到達できる人間というのは少ない。
こういうことを考えるようになったのは、いまある人のメルマガを購読しているから。その人もやはり企業の経営者なんだけど、それなりに大きくて面白い話をする。たとえばこれ↓
http:// ameblo. jp/tets uofunah ara/ent ry-1119 4008431 .html
ほかにもいくつか個人事業者の人とかのメルマガを読んでいるけれど、だいたいはノウハウレベルの話が多い。つまり、小さい話が多い。ところが、上のブログの人は、一次元上の話をしている。それは、彼が普通の事業者よりも一次元上の段階にいるからだと思う。これより上ということになれば、ジョブズになる
多くの人にとって面白い話をする、というのはすごいことだ。子供のときに毎週聞かされた校長先生の話なんか、一つも覚えているものはない。大学の卒業式で、当時の学長の話を聞いたけれど、思わず失笑しそうになるほどつまんない話でびっくりした。一生のあいだに、それだけ大勢の人に一度に話をする機会というのは大学の学長といえどそう多くない。その貴重な機会に、希望に燃える若者の心をうつ話をできない、ということは、彼の人生が若者の心を打つようなものではなかった、ということだ。
人生で経験することが人を思考させ、それがその人の話すことのレベルを決定する。いまさらだけど、スティーブ・ジョブズのこの演説はまさに最高レベルのそれである、ということを確信するのだった。
ここが田舎なのか。 しかし、ネットで見ても、発売されたのは「ipadの新型」であって、ipad3ではない。わけわかんない。さらに新型がでたらどうするんだろうか? FinalFantasyの新型とか聞いても、それが14なのか15なのかもうわかんないように、ナンバリングというか、名前をつけるのは大事なことだと思う。スティーブ・ジョブズが生きていたらそんなことを許しただろうか?
んが、彼はそういう話をいっさいしなかった。それで、彼の人生を決定づけた三つのことについてだけ話している。それで十分すごい話だっていうこと自体がすごいことなんだけど、要するに、ものすごい大きなことについてしか話していない。こういう次元に到達できる人間というのは少ない。
http://
ほかにもいくつか個人事業者の人とかのメルマガを読んでいるけれど、だいたいはノウハウレベルの話が多い。つまり、小さい話が多い。ところが、上のブログの人は、一次元上の話をしている。それは、彼が普通の事業者よりも一次元上の段階にいるからだと思う。これより上ということになれば、ジョブズになる
多くの人にとって面白い話をする、というのはすごいことだ。子供のときに毎週聞かされた校長先生の話なんか、一つも覚えているものはない。大学の卒業式で、当時の学長の話を聞いたけれど、思わず失笑しそうになるほどつまんない話でびっくりした。一生のあいだに、それだけ大勢の人に一度に話をする機会というのは大学の学長といえどそう多くない。その貴重な機会に、希望に燃える若者の心をうつ話をできない、ということは、彼の人生が若者の心を打つようなものではなかった、ということだ。
人生で経験することが人を思考させ、それがその人の話すことのレベルを決定する。いまさらだけど、スティーブ・ジョブズのこの演説はまさに最高レベルのそれである、ということを確信するのだった。
2012年3月10日土曜日
就職活動で絶対に成功する方法
良い就職・転職先を決める三つの要素 ~ 経済評論家・山崎元のビジネス羅針盤
http://www.r-agent.co.jp/guide/yamazaki/20110818.html
上の記事はよい。今の時代、こんなふうに冷静に就職について話す人が出てきたんだなあ、という感じ。むかしからいたのかもしれんが。
最近日本では就職活動ってのがはやっているらしい
http://ameblo.jp/tetsuofunahara/entry-11186256430.html
はやってるつっても、まあ毎年のことだろうけど、これ、日本だけの現象なんだよね、婚活とかと同じく。ほかの国は知らんが、フランスでは就職は行きたいところにCVという履歴書と動機書を自分で全部作って、送る、それをひたすらやる。新卒っていう概念がないし、みんなしょっちゅう仕事探しているので、逆に新卒の方が厳しい。
まあそれはいい。どちらにせよ、どこかに雇ってもらうってことは、どれだけその職場でお金を稼げるか、あるいはそこで上手に歯車になれるか、その可能性を見せるってことの結果としてある。それをわかっていて、どこに行きたいかがわかっているんなら、就活なんて100パー成功するはず。
たとえば、どこかのメーカーで働きたいんなら、チリでいま取引しているとこより三割も安く仕入れるって情報を手に入れて、仕入れと輸送のめどまで大まかにたてていれば、採用される。それを面接官とかに話すんじゃなくて、経営者レベルの人に話す。
だって、エントリーシートとかを何十枚も書いて何十社にもあてずっぽに送って、一社ずつ朝起きして面接とかに行くより、そういうレベルのことを集中してやったほうが絶対能率はいいわけよ。そして、そこまで知識とノウハウを持っていたら、その会社じゃなくても、関連企業にもその案をもっていける。というか、そういう勉強をしたってことが何より今後役に立つ。
でも、そういうことする人はいないだろうな。というか、そんだけできるんなら自分で起業するって。
というわけで、より現実的な策としては、上のブログの人が書いているように
http://ameblo.jp/tetsuofunahara/entry-11186256430.html
--------------------------------
そんなことよりも
きちんと質問を理解して答えられているかとか
(コミュニケーションをしっかりと出来ない人はとても多いです)
言ったことを言ったとおりに出来るかとか
(言ったことを言ったとおりに出来ない人はとても多いです)
そういうことの方が重要です。
--------------------------------
ま、この二つができればそれで問題はないと思う。
きちんと質問を理解して答えられ、
言ったことを言ったとおりに出来る
とか、そんな人、フランス人には100人に一人もいない。
というか、いるのかって感じだ。
日本はレベルが高いのかもしれんが、まあこの二つさえできれば
間違いないだろう。それが難しいんだけど・・・・
さらに言えば、それがなぜそんなに難しいか、ということまで
理解していれば、まず間違いない。
あとは面接官に興味を持ってもらえれるように
多少は目立っておく、とういうことくらい。
よくありがちな就職活動の落とし穴は、
自分の社会的価値とか存在意義まで
まだついてもいない仕事に見いだそうとしたりする
ことにある。
はじめの記事の内容と一致するけれど、
そういうことはすっぱり忘れて
いかに今後継続的にお金を稼いで
この世の中で生き延びていくのか
ということだけに集中するのが正解。
ま、ぼく自身は就活はしたことないんだけども。
http://www.r-agent.co.jp/guide/yamazaki/20110818.html
上の記事はよい。今の時代、こんなふうに冷静に就職について話す人が出てきたんだなあ、という感じ。むかしからいたのかもしれんが。
最近日本では就職活動ってのがはやっているらしい
http://ameblo.jp/tetsuofunahara/entry-11186256430.html
はやってるつっても、まあ毎年のことだろうけど、これ、日本だけの現象なんだよね、婚活とかと同じく。ほかの国は知らんが、フランスでは就職は行きたいところにCVという履歴書と動機書を自分で全部作って、送る、それをひたすらやる。新卒っていう概念がないし、みんなしょっちゅう仕事探しているので、逆に新卒の方が厳しい。
まあそれはいい。どちらにせよ、どこかに雇ってもらうってことは、どれだけその職場でお金を稼げるか、あるいはそこで上手に歯車になれるか、その可能性を見せるってことの結果としてある。それをわかっていて、どこに行きたいかがわかっているんなら、就活なんて100パー成功するはず。
たとえば、どこかのメーカーで働きたいんなら、チリでいま取引しているとこより三割も安く仕入れるって情報を手に入れて、仕入れと輸送のめどまで大まかにたてていれば、採用される。それを面接官とかに話すんじゃなくて、経営者レベルの人に話す。
だって、エントリーシートとかを何十枚も書いて何十社にもあてずっぽに送って、一社ずつ朝起きして面接とかに行くより、そういうレベルのことを集中してやったほうが絶対能率はいいわけよ。そして、そこまで知識とノウハウを持っていたら、その会社じゃなくても、関連企業にもその案をもっていける。というか、そういう勉強をしたってことが何より今後役に立つ。
でも、そういうことする人はいないだろうな。というか、そんだけできるんなら自分で起業するって。
というわけで、より現実的な策としては、上のブログの人が書いているように
http://ameblo.jp/tetsuofunahara/entry-11186256430.html
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そんなことよりも
きちんと質問を理解して答えられているかとか
(コミュニケーションをしっかりと出来ない人はとても多いです)
言ったことを言ったとおりに出来るかとか
(言ったことを言ったとおりに出来ない人はとても多いです)
そういうことの方が重要です。
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ま、この二つができればそれで問題はないと思う。
きちんと質問を理解して答えられ、
言ったことを言ったとおりに出来る
とか、そんな人、フランス人には100人に一人もいない。
というか、いるのかって感じだ。
日本はレベルが高いのかもしれんが、まあこの二つさえできれば
間違いないだろう。それが難しいんだけど・・・・
さらに言えば、それがなぜそんなに難しいか、ということまで
理解していれば、まず間違いない。
あとは面接官に興味を持ってもらえれるように
多少は目立っておく、とういうことくらい。
よくありがちな就職活動の落とし穴は、
自分の社会的価値とか存在意義まで
まだついてもいない仕事に見いだそうとしたりする
ことにある。
はじめの記事の内容と一致するけれど、
そういうことはすっぱり忘れて
いかに今後継続的にお金を稼いで
この世の中で生き延びていくのか
ということだけに集中するのが正解。
ま、ぼく自身は就活はしたことないんだけども。
2012年3月9日金曜日
楽しむことと生き延びること
人生ですることってのは、1.楽しむこと、それと2.生き延びること、この二つしかない。この二つのうち、優先順位が高いのは「楽しむこと」であり、「生き延びること」ってのが必要なのはなぜかというと、それは人は人生を楽しむために生きるからだ。
人が学ばないといけないことも、上の二つしかない。「楽しむこと」と「生き延びること」。人が教えるべきことも、「楽しむこと」と「生き延びること」の二つしかない。楽しみを見いだし、生きる喜びを見つけることと、その喜びのために生きる方法を身につけること。自殺する若者が増えるのは、このどちらも自分で学ばなかったか、教わらなかったからだ。これは個人の問題のように思われがちだけど、何の楽しみも希望もない社会では自殺者が増える。
これはすごく単純で明快なことなんだけれど、こうして言葉にして明快にする、ということをやる人はあまりいない。だから問題が見えない。まあそういうことはよくあるが、これはまあ、基本中の基本で、大事なことのなかでも一番大事だ。
たとえば、会社で死ぬほど働く。それはお金を稼いで生き延びること、には役に立つが、そのせいで人生に疲れて、楽しむこと、をしなくなったらどうなるか。生きる喜びがなくなるということ、それは生きる力がなくなるということで、死んでしまう、ということだ。目標1と2の両方が生きるためにはつねに必要だ。
大学でたとえば何の役にも立たない心理学を勉強する。これはつまんないので1にも関係ないし、ましてや2にも関係ない。するとこれはまったくの無駄、ということになる。そういうのはもう詐欺と同じで、時間とお金を無駄に他人に取られているだけだ。自分にとって興味のもてないことほど意味のないことはない。
すべての教育は、何かに関心をもたせ、それをおもしろい、と思わせるか、あるいは、生きるのに役立つ技能や知識を教える、ためにある。ところがいまの教育はそのどちらの役に立っていないものが多い。繰り返すが、これは詐欺だ。人生の若い段階で、それに気づかず、何も学ばず、何にも興味持てないと、自殺を選んでしまう、というのはよくあることだ。
つまり、これは教育の問題でもあるわけだ。
これだけいろいろ面白いものがある日本で自殺が増えているというのは、よほど社会に希望がないか、教育が失敗しているか、そのどちらかだ。ぼくはその両方だと思う。
■良い人生見えぬ・友人できない…死に急ぐ若者
(読売新聞 - 03月09日 14:36)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120309-OYT1T00737.htm?from=rss&ref=mixi
人が学ばないといけないことも、上の二つしかない。「楽しむこと」と「生き延びること」。人が教えるべきことも、「楽しむこと」と「生き延びること」の二つしかない。楽しみを見いだし、生きる喜びを見つけることと、その喜びのために生きる方法を身につけること。自殺する若者が増えるのは、このどちらも自分で学ばなかったか、教わらなかったからだ。これは個人の問題のように思われがちだけど、何の楽しみも希望もない社会では自殺者が増える。
これはすごく単純で明快なことなんだけれど、こうして言葉にして明快にする、ということをやる人はあまりいない。だから問題が見えない。まあそういうことはよくあるが、これはまあ、基本中の基本で、大事なことのなかでも一番大事だ。
たとえば、会社で死ぬほど働く。それはお金を稼いで生き延びること、には役に立つが、そのせいで人生に疲れて、楽しむこと、をしなくなったらどうなるか。生きる喜びがなくなるということ、それは生きる力がなくなるということで、死んでしまう、ということだ。目標1と2の両方が生きるためにはつねに必要だ。
大学でたとえば何の役にも立たない心理学を勉強する。これはつまんないので1にも関係ないし、ましてや2にも関係ない。するとこれはまったくの無駄、ということになる。そういうのはもう詐欺と同じで、時間とお金を無駄に他人に取られているだけだ。自分にとって興味のもてないことほど意味のないことはない。
すべての教育は、何かに関心をもたせ、それをおもしろい、と思わせるか、あるいは、生きるのに役立つ技能や知識を教える、ためにある。ところがいまの教育はそのどちらの役に立っていないものが多い。繰り返すが、これは詐欺だ。人生の若い段階で、それに気づかず、何も学ばず、何にも興味持てないと、自殺を選んでしまう、というのはよくあることだ。
つまり、これは教育の問題でもあるわけだ。
これだけいろいろ面白いものがある日本で自殺が増えているというのは、よほど社会に希望がないか、教育が失敗しているか、そのどちらかだ。ぼくはその両方だと思う。
■良い人生見えぬ・友人できない…死に急ぐ若者
(読売新聞 - 03月09日 14:36)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120309-OYT1T00737.htm?from=rss&ref=mixi
2012年3月5日月曜日
子供たちのためのクラシック音楽授業に行ってきた
ぼくのすんでいる町では、日曜日はシネマテックや劇場で子供のためのプログラムがある。映画の方はいったことあったけれど、音楽の方はいったことがなかったので行ってみた。演目はベートーヴェンの交響曲六番。
買ったチケットにはフランス語で「席自由」と書いてある。するとびっくり、劇場の前には人だかりができていた。その人気の原因はすぐわかった。この人だ。
髪の短いJean-François Zygelという人、この人がこの番組、「La boîte à musique」を作って司会しているんだけど、この人が第一楽章の演奏の後出てきて、曲の紹介をしてくれた。もうしゃべりがうまいのなんのって。ぼくはこの番組もこの人のことも知らなかったけれど、あまりにしゃべりがうまいから調べてみたら有名人だったってわけ。
フランス語でしゃべるときには、すごく強弱をつけてしゃべるので、しゃべるがうまい人はすごくうまくなる。これは哲学の講演会みたいなので、日本人とフランス人が一緒に発表したときにすごく思った。日本語で育った人だとかなりしゃべりがうまい人でも、強弱はない。フランス語で話していても日本語みたく抑揚なくしゃべる。これは寝れる。ところが、不思議なことに、このぼくでさえフランス人がフランス語で話している授業を受けていて寝たことがない。実際、下のラカンの授業とか受けてて寝れるって人いるだろーか? ちなみに、日本人留学生は最前線で録音しながら受けるのが伝統。
この動画の7分くらいに起こった出来事、これ、どこかでその留学生だった人の話を読んだことがあったけれど、まさか録画があったとは・・・Youtubeすごいな。
まあそれはともかく、子供のための授業だったけれど、ぼくにとってもすごくためになった。六番はいわゆる標題音楽ってやつで、六楽章それぞれに題がついている。んで、それぞれの楽章にいろんな情景を思い起こさせる曲があるってことを説明してくれた。一楽章ごとに、それぞれダンスや、嵐、鳥の鳴き声など。いろいろ異なるモチーフがある
たとえば、第3楽章「農夫達の楽しい集い」で入るオーボエの旋律は酔っ払いの踊りで、そこに入ってくるファゴットはそれを「ハハハ」「ハハハハハ」と馬鹿にしている、みたいなこと。動画では一分目くらいのところ。僕の前に座っていた子供は、そのあとの演奏でこのファゴットの音を聞くたびにクスクス笑っていた。ちなみに第六の解説は下を参照。
たとえば、第3楽章「農夫達の楽しい集い」で入るオーボエの旋律は酔っ払いの踊りで、そこに入ってくるファゴットはそれを「ハハハ」「ハハハハハ」と馬鹿にしている、みたいなこと。動画では一分目くらいのところ。僕の前に座っていた子供は、そのあとの演奏でこのファゴットの音を聞くたびにクスクス笑っていた。ちなみに第六の解説は下を参照。
さて、Zygelさんはこういう子供ための授業を一つの仕事にしていて、CDも出している。本業は音楽家らしいけど。
この人の授業を受けていて、西洋のクラシック音楽がこの時期に、自然や人間の生活から音楽を取り出すようになった、ということに気がついた。西洋音楽ははじめは聖なるテキストに抑揚をつけて歌うだけだったのが、数世紀で「田園」まで発展したってわけだ。これはすごいことだ。
ベートヴェンとかの時代だとまだモチーフがわかりやすいけれど、これがショスタコヴィッチくらいまでくるともうわかんなくなる。現代になると、完全に意味不明だ。まあ例外もあるけど・・・・。下のはマシンガンがモチーフですね
音楽というのはその着想の源泉の変化もさることながら、なにを音楽として楽しむか、ということが歴史とともにかわってきた。ということを前から考えていたんだけど、まだいろいろ勉強するべきことがあるってわかっただけでも収穫だった。子供ための授業、あなどれません。
ちなみに「人類の至宝」とまでいわれるワルターの演奏はいろいろな録音を聞き比べてみた後に聞くと良さがわかる・・・かも
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