2012年8月10日金曜日

なぜ日本はメキシコに勝てなかったのか?

ロンドンオリンピックの準決勝、日本対メキシコ戦は1-3でメキシコの勝利に終わった。この試合についてはすでにいろいろなことが書かれている。なかでもpal-9999さんの文章は明快だ。
http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20120809/p1

日本は一点目とてもいい形を作って点を取ったが、足が止まり負けた。ぼくが見始めたのは日本の足が止まってからだったが、確かにほんの数秒見ただけでこりゃあだめだと思った。メキシコに同点に追いつかれた時点で、勝てる気が全くしなくなったので見るのをやめた。あれだけ動けないで勝てるということは絶対無い、そう確信させるような試合ぶりだった。実際、二点目はちょんぼからやられた。普通ならあんなミスはありえないというようなミスだった。それもこれも、連戦の疲れのせいだろう。

メキシコ相手には練習試合で勝っている。なので、格上の対戦なので足がすくんだとか、準決勝まで来たので満足していたとか、そういう理由で動けなかったのではないだろう。やはり、ハイプレスで連戦してきたことからの疲れが来たのだと思う。日本が負けたのは必然だっただろう。

日本の敗戦は必然、というのには理由がある。日本は、一戦目から全力でいかなければならなかったために、どうしてもだんだんとコンディションが下がってくる。が、ホンジュラス戦を除いて、どの試合も似たような戦術で、つまり消耗する戦術で戦わなければならなかった、というところに問題があった。つまり、日本は連戦ができるような戦術を持っていなかった。それは、日本はそもそも連戦を勝ち抜くための戦略を持ってオリンピックに臨んでいなかった、ということだ。

戦略とは、オルタナティブな戦術のほか、手を抜く試合で手を抜くとか、控えの選手を出しても力が落ちないだけの選手層の厚みを持つとか、そういうのをすべて含める。でも、トーナメントで延々と勝ち抜くための戦略を持つ、ということはそれだけ余裕があるチームでないとできない。何度も決勝までたどり着いているようなチームや国がそれだけの余裕を持てるが、36年ぶりの銅メダルを狙う国にはそういう余裕はない。

日本の女子サッカーが決勝までいけたのは、以前W杯で優勝した経験があるからだ。その経験があるから、短期の連戦となるこういうカップでどう戦えばいいかを知っている。選手にも、優勝を前にして臆さないだけのメンタリティーがある。

要するに、男子と女子の差は、経験であり、歴史だ。それが決勝までいけるか、いけないか、の差になった。監督や選手の能力の問題ではなく、そういう経験をつんでいるかいないか、の差である。トーナメントで勝ち抜いた経験が、戦術だけではなく戦略を生む。もしそういう経験が無ければ、体当たりで臨むしかない。メキシコ戦はぐだぐだだったが、それでも男子サッカーはよくやった。



2012年8月7日火曜日

さかなクンに学ぶいじめをなくす方法

さかなクンさん(以降敬称省略)がいじめについて書いたすばらしい文章がある。短いので全文引用してみよう。

中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。
 でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
 広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
 中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。
 ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。
(朝日新聞2006年12月2日掲載)
http://www.asahi.com/edu/ijime/sakanakun.html


これはとてもよく書けた文章で、簡潔に見事に問題点をまとめていて、しかも実感もこもっている。さかなクンは何度も推敲してこの文章を書いたのだと思う。

さて、この中に、いじめについての解決策が提示されている。それは、一般に言われている、いじめ問題への対策とはまるっきり違う。一般には、子供に命の大切さを教えるのだの、教育委員会改革だの、セーフティネットを作るだの、いろいろと言われている。そのどれもが不可能か、時間がかかりすぎるものばかりだ。

たとえば、子供に命の大切さを教えるということ、それは端的に無理だ。ものごとには、教えることができるものと、自ら学ばなければならないものがある。命の大切さなどというものは、教えられるものではなく、学ぶことしかできないものだ。よってこれはいじめ問題の解決策とはならない。

上の文章の中で、魚さえも狭いところに閉じ込めるといじめだす、というくだりがある。いじめられっこを助けても、ほかの魚がいじめられる。これはさかなクンならでは見事な観察眼だと思う。ここで重要なのは二点ある。第一に、いじめとは、自然に起こりうるものであるということ。いじめが起こりうる環境というのは自然界にはあまりないかもしれないが、動物でもある環境下ではいじめをする。動物までもが自然にすることを、人間が抑止できる、ということはありえない。よって、ある環境下でいじめが起きるというのはいわば必然であり、これを外部から止めることはできない。

第二点は、狭いところに閉じ込めるといじめが起きる、ことが観察されていることだ。これは先ほど書いた、「ある環境下では」ということの意味だ。つまり、問題は環境にあるのであって、構成員にはない。魚一匹一匹は善でも悪でも、命の大切さを知っているわけでも知らないわけでもない。それに関係なく、狭いところにある一定の人数が閉じ込められると、いじめは起きるのだ。これは人間でも同じ。ゆえに、いじめをなくすには、環境を変えればいい。

具体的には、学校のクラス制をまずなくす。科目ごとに違うメンバーで授業を受けるようにして、同じメンバーが固定しないようにする。これだけでいじめはほとんどなくなると思う。これは、学年の人数が多い学校では特に効果があるだろう。それでもいじめが起きるのなら、半年ごとに学校を変えられる、などの自由を生徒に与えればいい。日本では、アメリカみたいな人種差別によるいじめは少ないと思うので、学校でいつも顔をあわすメンバーを多少流動的にするだけで大きな効果が出るはずだ。

詳しくは知らないけれど、欧米の学校にはもともと決まった学級などないのではないだろうか? アメリカ映画なんかの高校とかでは、いつも通路にロッカーがあるが、あれは決まった教室というのがないので、私物をロッカーに入れるしかないからだと思う。それでもアメリカでいじめがあるのは、あそこがそういう国だからだ。といっても、アメリカでのいじめと日本でのいじめは相当質が違うだろうけれど。

問題の解決には、根本のところを変えないといけない。対処療法というのは効果が薄い。理系では常識の考え方だが、ある効果や結果の原因は個々の要素にはなく、関係にある。いじめの原因は、「いまどきの子ども」なのではなく、そうした関係を生み出す環境にある。それを変えるだけで、問題はかなり解消されるだろう。